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豊年斎梅坊主(ほうねんさい うめぼうず、嘉永7年〈1854年〉 - 昭和2年〈1927年〉)とは、かっぽれの名人として後世に知られる芸人。略称「梅坊主」としてもよく知られる。 == 来歴 == 本名は松本梅吉。兄の平坊主(明治4年没)とともに、願人坊主であった〔願人坊主は身分固定されたような存在ではなく、幕末に急増する地方からの流入民の一つの行き先でもあった。〕。神田から下谷一帯で門付けをしたり、長屋仲間である浪花節、デロレン祭文などの芸人と共に、阿呆陀羅経で秋葉っ原などのヒラキに出たりしていた。有名になってから証言も変わるため、初期の実態はわからないことが多い。 本姓の松本にちなんで兄と共に「松本講四郎一座」を作る。かっぽれだけでなく、茶番狂言、俄芝居、道化芝居のようなものを仕組んで興行していた。座員は兄弟、太閤の藤吉、初坊主、八卦の重吉、けし面の藤吉、南京豆の米吉、和藤内の鬼松に三味線2名からなり、他に伊勢音頭、掛合の軽口芸などもしていた。1886年(明治19年)、不入りだった活歴物の歌舞伎で「かっぽれでも踊れ」と新聞に投書された九代目市川團十郎に新富座でかっぽれを教え、團十郎は本当に舞台でかっぽれを踊る(河竹黙阿弥作『初霞空住吉』)。この興行が大好評で、芸者衆は座敷で踊り、市中にかっぽれはいっそう普及する。 1893年(明治26年)に一座は渡米し、サンフランシスコの劇場に出るが、低俗卑猥な演技が不評で帰国する。このように社会の最下層と見られていた願人坊主〔『東京の下層社会』・『貧天地飢寒窟探検記』などが当時書かれたルポである。〕出身では異例の活躍をし、なおかつ芝・新網町に住むことを続け、隠さなかった。また、かっぽれを寄席芸として明治・大正をまたいで登場する。帝国ホテル演芸場などに出演、梅坊主だけが名を売ってかっぽれの本家とされ、1924年(大正13年)帝国ホテル演芸場での公演後、長男に2代目梅坊主を名乗らせ、二男を平坊主とした。梅坊主自身は隠居後、豊年斎太平坊と称し、晩年は関東大震災で倒壊した凌雲閣に付属し残った「凌雲座」に出演し続け、1927年(昭和2年)に没した。住吉踊り(かっぽれの別名)は幇間の座敷芸としても人気を高めた。かっぽれなどの音曲もの、掛け合い軽口、阿呆陀羅経の音源〔中村とうよう『中村とうようの収集百珍』75.豊年斎梅坊主の分類による。〕が残っている(フレッド・ガイズバーグの出張録音など。詳しくは快楽亭ブラック_(初代)の項を参照)。以下はSPレコードのレーベル部分。 File:梅坊主-あほだら経出鱈目-レーベル.jpg|あほだら経「出鱈目」 File:梅坊主-滑稽音曲掛合咄-レーベル.jpg|滑稽音曲掛合咄 File:梅坊主-深川通-レーベル.jpg|音曲「深川通」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「豊年斎梅坊主」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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