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梅 堯臣(ばい ぎょうしん、1002年(咸平5年) - 1060年(嘉祐5年)4月25日)は中国・北宋中期の詩人で官僚政治家。字は聖兪。宣州宛陵(現在の安徽省宣城市)の人。その出身地から梅宛陵・宛陵先生、最終の官名から梅都官と呼ばれる。その詩風は宋詩の基礎をつくった。 == 略伝 == 1002年、梅譲の、おそらく庶子として生まれる。母の名は束氏と張氏の2つが伝わっている。梅家は代々官僚とは無縁の家柄だったが、叔父(梅譲の弟)の梅詢が例外的に翰林侍読学士という高官に就いていた。13歳になるとその梅詢のもとで詩文を学んだと思われる。26歳、太子賓客謝濤の娘と結婚する。唐代のような世襲貴族が存在しない宋代にあって、官僚政治家を輩出する各家は、婚姻による結びつきにより新たに名族を作り出しつつあった。謝家は欧陽脩・王安石・黄庭堅などとつながる名家であり、謝氏と結婚した梅堯臣の前途は洋々かと思われた。しかし梅堯臣は科挙に及第することなく、29歳のとき、梅詢の功績にあやかる任子という制度によって官途に就いた。宋代の官僚任用制度の基本は科挙であり、イレギュラーな任子を官僚のスタートとして選んだ梅堯臣の官僚人生は、その出世のスピードが妻に「鮎魚(なまず)が竹竿を上るように」まどろっこしいと嘆かせるほど不遇で、生涯貧困を余儀なくされる。 役職としてまず太廟斎郎(皇帝の廟堂の係官)に就き、ほどなく桐城県(安徽省)の主簿(県知事の補佐官)を経て、30歳のとき河南(洛陽)の主簿に転じた。そこで洛陽留守(市長)で当時の文壇の重鎮であった銭惟演に詩才を激賞され、その紹介で多くの文人・詩人と知り合う。生涯の親友であり文学の同志であり、パトロンともなった欧陽脩ともこのとき出会う。さらに河陽(河南省)主簿、徳興県(江西省)の県令(県知事)、建徳県(安徽省)・襄城県(河南省)の知県(県知事)、呉興(浙江省)の監税官など地方官を転々としたが、1044年7月7日、43歳のとき、呉興監税官を全うして都汴京に帰る途中、高郵(江蘇省)の船の中で妻謝氏を亡くし、同月のうちに符離(安徽省)で次男十十をも喪う。この一大事がその詩作に新たな作風を与えることとなる。2年後に都官員外郎刁渭の娘と再婚した。 その後も忠武軍節度判官(河南省許州の総督の属官)・鎮安軍節度判官(河南省陳州の総督の属官)など地方官を勤め、1049年には父梅譲の死による服喪などがあり、低い官位のままで生活は苦しかったが、1048年、国士博士(国立大学教授)、1051年、同進士出身を賜り、太常博士になった。進士は科挙の中でも最も尊ばれたコースであり、これにより50歳にしてようやく梅堯臣の未来も大きく拓けたかに見えた。いったん永斉倉(汴京の北の永斉渠という運河のほとりにあった穀物倉庫)の監督に転じ、母束氏の喪に服した後、1057年、欧陽脩らの推薦によって中央での官である国子監直講(国立大学教授)になり、翌年、科挙の知貢挙(試験委員長)となった欧陽脩のもとで小試官(試験官)となった。このとき及第した者のなかには蘇軾・蘇轍兄弟、曾鞏がいる。 1060年、尚書屯田司員外郎・刑部都官員外郎に至ったが、4月17日、当時都に流行した疫病に倒れ、同月25日、59歳で亡くなった。このとき在住していた汴京城東の汴陽坊は庶民が住む下町で、大官が車馬を連ねて弔問に訪れるのを見て、近所の人々が驚いたと欧陽脩による墓誌銘が伝えている。長男に梅増、夭折した次男十十、ほか女子2名がいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梅尭臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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