|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 梅 : [うめ] 【名詞】 1. (1) plum 2. Japanese apricot 3. prunus mume 4. (2) lowest (of a three-tier ranking system) ・ 崎 : [みさき] (n) cape (on coast)
梅崎 司(うめさき つかさ、1987年2月23日 - )は、長崎県諫早市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属。登録ポジションはミッドフィールダーで主にトップ下、左サイドでプレーする。元日本代表。 == 来歴 == 大分トリニータU-18から2005年にトップチームへ昇格。2006年途中からレギュラーに定着した。同年8月31日、アジアカップ2007の最終予選に向けたA代表メンバーに、当時のチームメイトであった西川周作と共に選出された。これによりクラブ初のA代表選手となると、9月6日に行われたイエメン戦で交代出場し、代表初出場を記録した〔日本人選手の10代での国際Aマッチ出場は1998年の小野伸二、市川大祐以来。〕。 2007年1月26日にフランス2部のグルノーブル・フット38へレンタル移籍。完全移籍のオプションもあったが行使されず、同年6月末の契約期間満了を前倒しして大分トリニータへ復帰。同年12月26日、浦和レッズへの完全移籍が発表された。 浦和移籍初年度となった2008年は、鋭いドリブルと思い切りの良いシュートを武器に序盤戦はチームの攻撃を牽引していたが、フリーにポジションを取って自由にプレーすることを好む梅崎に反し、一部の選手を除いてリスクを冒してまで選手が自由に動くことを好まなかった当時の監督、ゲルト・エンゲルスの方針に合わず、中盤戦以降出場機会を失っていった。 2009年、前年まで背番号7を付け、不調に陥っていたFW高原直泰がなじみある背番号19への変更を希望したため、翌年からその背番号7をつけることになった。 この年から就任したフォルカー・フィンケ監督から大きな期待を受け、キャンプでは練習試合で積極的に起用されていたが、開幕目前の3月に腰痛を患い手術を受けた。長いリハビリを経て同年8月15日に復帰し出場機会を増やしていったが、同年11月17日のトレーニング中に右膝を故障してしまい、検査の結果、右膝前十字靭帯損傷と診断〔梅崎司の負傷について|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト 〕され、以降全ての公式戦に欠場した。 2010年、夏頃の復帰を目指しリハビリに励む毎日を送っていたが、ワールドカップによる中断期間直前辺りにトレーニングに完全合流し、オーストリアキャンプにも帯同、練習試合にも出場出来るほど回復したが、8月1日に行われた国際武道大学との練習試合に出場した際に再び右膝を痛めてしまう。後日、右膝半月板損傷と診断され〔浦和MF梅崎半月板損傷、リハビリ頑張る 〕、半月板の部分切除手術を行い再度離脱したが〔お久しぶりです。|梅崎司 オフィシャルブログ 〕、10月1日にチームの全体練習に合流し、翌10月2日に行われたJリーグ第25節、対大宮アルディージャ戦で出場はなかったものの、約10ヶ月振りの公式戦ベンチ入りを果たした〔浦和MF梅崎負傷手術後10カ月ぶり復帰へ 〕。そして10月23日、第27節のジュビロ磐田戦で後半32分からの途中交代で、約1年ぶりに試合復帰。しかしこの後は再び細い故障を繰り返した影響もあり、この年の公式戦試合出場はこの試合と次節のモンテディオ山形戦の2試合にとどまった。 2011年、練習試合でゴールを量産し復調をアピールしていたものの、公式戦ではベンチ入りメンバーにすら入れない状態がシーズン終盤まで続いていた。そういった中で監督が堀孝史に交代すると、以降は右サイドの攻撃的なポジションのレギュラーの座を獲得、10月22日に行われた第30節、対横浜F・マリノス戦では決勝ゴールを挙げるなどの活躍を見せ、チームのJ1残留に大きく貢献した。 2012年、移籍後初の開幕スタメンを勝ち取り、その後は左ウイングバックでスタメン定着を果たした。また2シャドーの柏木陽介、マルシオ・リシャルデスが出場出来ない試合は、2シャドーにスライド出場している。同年12月20日に自身の所属事務所のサイトを通して川上璃子との入籍を報告した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梅崎司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|