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梅津 憲忠(うめづ のりただ、1572年(元亀3年) - 1630年8月19日(寛永7年7月11日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。久保田藩(秋田藩)家老。梅津道金の次男。母は木村氏(道金とは連れ子がいる同士の再婚)。妻は矢野憲重の娘(死別)、のち根本行道の娘。幼名善阿弥、通称半右衛門。異父兄に木野春阿弥、木野小左衛門忠道(彌三)、異母兄に彌生、同父母弟に正一(勝都)、梅津政景がいる。子は前妻との間に廉忠、忠國、上曽治俊室、後妻との間に忠雄、忠貞および娘が6人(うち1人は夭折)。 == 略歴 == 梅津氏は宇都宮氏に仕える家系であったが、憲忠の父・道金が逐電して常陸太田に移り、窮乏した少年時代を送りながらも、学問に専念した。この間、佐竹北家の佐竹義憲に食い扶持を与えられ、彼の薫陶を受けて育ち、後に優れた政治手腕を発揮する素養が培われた。また、自ら義憲の一文字を偏諱として賜ることを所望し、憲忠と名乗った。真崎某という同僚と諍いを生じ、真崎に斬りかかって負傷させたかどで一時期出奔していたが、義憲の取り成しで帰参している。義憲は憲忠にとって大恩ある人物だった。 憲忠の異父兄に木野春阿弥という人物がおり、佐竹義宣に茶坊主として仕え、武勇の誉れ高く合戦でも縦横に活躍したが、若くして病没した。義宣は憲忠を後任に命じた。憲忠は茶坊主善阿弥として義宣に近侍して頭角を現し、やがて祐筆となって佐竹家の屋台骨を支える存在となってゆく。 義宣が関ヶ原の戦いの咎めを受けて常陸から出羽の移封されると憲忠は300石を与えられて近習出頭人に抜擢され、弟梅津政景や渋江政光らと共に藩政の刷新に辣腕を振るった。久保田藩は藩主義宣の指揮の元、林業、鉱業、農業を基軸に置いた振興を行い潤ったが、藩の発展には憲忠、政景兄弟の献策の寄与するところが大きかった。 1614年の大坂の役には息子の梅津廉忠(かどただ、義憲の子・義廉から偏諱を賜る)と共に参戦し、今福の戦いで奮戦して武勲を挙げた。この時憲忠は黄唐織の幌を飾り、全身に傷を負いながらも遮二無二奮戦し「佐竹の黄鬼」と畏怖された。翌年、徳川秀忠に拝謁し、その戦功を表彰されて信国の太刀と感状を賜っている。秀忠に褒賞を与えられた事に対して多くの人々が憲忠の下に祝いに訪れ、憲忠はこれに対して具足餅を振る舞った。この饗宴は恒例化し、梅津家では毎年1月17日に具足餅を振る舞う行事が催されるようになった。 その後、長年の実績を評価されて家老に抜擢され、大坂の役で志半ばにして戦死した渋江が推進していた検地を引き継いで施行し、弟政景と共に藩の地盤固めに寄与した。1630年に死去、享年59。 憲忠は優れた政治家、武将である一方で、連歌や書道に造詣が深い教養人でもあり、義宣も鷹狩の帰り道に憲忠の屋敷に立ち寄り共に歌や茶の湯に興じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梅津憲忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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