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梅若流(うめわかりゅう)とは、1921年(大正14年)から1954年(昭和29年)まで存在した能楽の流派。観世流から梅若派の梅若万三郎、二世梅若実、六世観世銕之丞が離脱して創設。1954年(昭和29年)に能楽協会の斡旋で観世流に復帰している。 == 経緯 == === 明治維新と梅若一門 === 明治維新期、観世宗家は徳川家とともに静岡に本拠を移した時期があったが(明治8年に東京に復帰)、この時期に江戸・東京で猿楽(現在で言う能楽)を守り続けたのが観世流では初世梅若実〔梅若実は明治以降の梅若六郎の隠居名であり、初世梅若実の芸名は梅若亀次郎、梅若六之丞、梅若六郎、梅若実という変遷を辿っているが、本項では煩雑を避けるために初世梅若実で統一する。梅若六郎としては五十二世である(五十六世梅若六郎『まことの花』世界文化社、2003年、35ページ)。〕と五世観世鐵之丞であった〔他、宝生流の宝生九郎、桜間伴馬なども江戸に残り、梅若実らと共同で演能に取り組んだ〕。初世梅若実は1828年に熊谷の鯨井家に生まれたが、梅若六郎家に跡継ぎとなる男子がおらず、また梅若六郎家が鯨井家に巨額の借金をしていたため、鯨井家の子供が梅若六郎家を継ぐことで借金を棒引きにするという取引がなされ、梅若六郎家に養子入りしたという経歴を持っていた〔五十六世梅若六郎、前掲書、39ページ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梅若流」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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