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梶原 金八(かじわら きんぱち、昭和9年(1934年)結成 - 昭和12年(1937年)活動停止)は、架空の人物名であり、かつて京都に存在した脚本家グループ「鳴滝組」(なるたきぐみ)の集団的ペンネームである。 == 略歴・概要 == === 「鳴滝組」の結成 === 1934年(昭和9年)、京都の若い映画人である脚本家の八尋不二、三村伸太郎、藤井滋司、監督の滝沢英輔、稲垣浩、山中貞雄、鈴木桃作、助監督の萩原遼の8人が「鳴滝組」を結成した。「鳴滝組」の命名は、当時八尋らが住んでいた、京都市右京区鳴滝音戸山町の近代以前の地名、「葛野郡鳴滝村」にちなんでいる。あとから引っ越してきた山中と、その1歳下で山中に師事する萩原が参加して、8人となった。 「鳴滝組」が共同で脚本を執筆する際のペンネームが「梶原金八」である。当時の東京六大学野球のリーディングヒッター、帝大の梶原英夫選手にちなんでいる。 メンバーはそれぞれ所属会社が違い、八尋・鈴木が新興キネマ京都撮影所、三村・滝沢が浪人中、稲垣・山中が片岡千恵蔵プロダクション(千恵プロ)、藤井が松竹下加茂撮影所、萩原が日活京都撮影所であった。鳴滝は太秦の北側に位置し、嵐電で2駅ほどの距離に多くの撮影所があった。松竹だけが少々遠かった。 「鳴滝組」結成第1作は、並木鏡太郎監督の『右門捕物帖 二百十日』である。この時点では「梶原金四郎」名義でクレジットされていた。同作が公開された同年7月12日の当時、三村が36歳、鈴木が33歳、滝沢が31歳、八尋が29歳、稲垣が28歳、藤井が25歳、山中が24歳、萩原が23歳であった。第2作、山中が応援監督としてクレジットされている小石栄一監督の『勝鬨』で「梶原金八」となるが、第3作の山中監督作『雁太郎街道』では「梶原金六」名義である。初年度はまだ「梶原金八」の名は安定していなかったのだ。 第1作『右門捕物帖 二百十日』の公開当時、同作を製作した嵐寛寿郎プロダクションに所属する者はいなかった。「鳴滝組」は京都のさまざまな映画会社の作品を手がけ、「梶原金八」の名は会社間を越境した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶原金八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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