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梶山 義彦(かじやま よしひこ、1970年7月24日 - )は、日本の野球選手(外野手)、野球指導者。 ==人物・来歴== 小学校1年生の時に父親の強い勧めでソフトボールを始め、やがて野球に移行した〔毎日新聞、1997年6月24日付朝刊、神奈川地方面〕。静岡高校では同級生に赤堀元之がいて、2年次のに第69回全国高等学校野球選手権大会に出場。高校卒業後のに三菱自動車川崎に入社した。 練習熱心でまじめな点には定評があり、勝負強い打撃を発揮して〔とには日産自動車の補強選手として都市対抗に出場。1995年の日本選手権2次予選では2試合で10打数8打点の活躍を見せ、本大会出場に貢献した〔毎日新聞、1995年9月26日付朝刊、P.24〕。本大会でも優秀選手賞を獲得し、チームは初優勝を果たしている。 はJABA北海道大会の準決勝でサヨナラ二塁打を放つなどの活躍を見せ、同大会でMVPを獲得〔毎日新聞、1996年8月7日付朝刊、北海道地方面〕。同年のアトランタ五輪に同僚の西郷泰之が出場したのが刺激となり、自身のプロ入りの可能性がないと感じた事などもあって日本代表入りを強く意識するようになったという〔毎日新聞、2000年9月14日付朝刊、神奈川地方面〕。翌に初めて代表候補合宿に招集され、IBAFインターコンチネンタルカップで同僚の西郷や桑元孝雄とともに代表入りを果たす〔毎日新聞、1997年7月15日付朝刊、P.25〕。同年は国際大会での活躍が評価され、初めて社会人ベストナインに選出された〔毎日新聞、1997年11月19日付朝刊、P.21〕。 はチームで5番打者を任されたが都市対抗出場はならず、東芝の補強選手に指定された。また、同年はアジア大会代表に選ばれ、銀メダルを獲得している〔毎日新聞、1998年12月29日付朝刊、静岡地方面〕。の都市対抗では日石三菱に補強され、優秀選手賞を受賞した。また同年のアジア選手権では主将を任され〔毎日新聞、2000年6月7日付朝刊、P.18〕、2年ぶりに社会人ベストナインに選ばれている。 は都市対抗予選までの公式戦13試合でチームトップの打率.444を記録するなど順調に調整が進み〔毎日新聞、2000年5月26日付朝刊、神奈川地方面〕、チームも3年ぶりに本大会に出場した。富士重工との2回戦ではサヨナラヒットを放つ〔毎日新聞、2000年7月30日付朝刊、神奈川地方面〕などの活躍で優秀選手に選ばれ、チームも初優勝を達成している。低めのボールに強い打撃などが評価されて〔シドニー五輪代表に選ばれた。五輪では予選リーグの対韓国戦と対南アフリカ戦以外の7試合に7番・右翼手としてスタメンで出場〔別冊宝島、No.1545、P.103〕。しかし持ち味のパワフルな打撃を発揮できず、2安打1打点に終わっている〔別冊宝島、No.1545、P.106〕。 は7年ぶりに日産自動車の補強選手として都市対抗に出場し、天野らとともに10年連続出場の表彰を受けている〔毎日新聞、2002年8月29日付朝刊、P.18〕。は激戦となった神奈川予選を勝ち抜いて〔毎日新聞、2003年6月14日付朝刊、神奈川地方面〕都市対抗に出場し、3年ぶりの優勝を果たした。からはコーチ兼任となり〔毎日新聞、2007年5月26日付朝刊、神奈川地方面〕、にチームは休部となった。 よりクラブチームのWARRIORS 41にコーチ兼外野手として参加している〔毎日新聞、2011年5月20日付朝刊、埼玉地方面〕〔warriors 41 公式サイト 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶山義彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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