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梶川 頼照(かじかわ よりてる)は、江戸時代前期の旗本。 == 生涯 == 幕府旗本土岐頼泰(切米600俵、土岐頼次の三男)の次男として生まれる。母は旗本山岡伝右衛門景重(400石)の娘。 明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川分重が嗣子なく没したため、その養子となって家督を継いだ。元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。同年12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き留守居番となる。 元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえた(取り押さえたのは高家の京極高規との説もある)。この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となった。この事件の仔細を『梶川与惣兵衛日記』に残した。長矩が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか」と叫んだ話もこの日記を根拠とするものである。 宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)4月1日、武勇の者が選ばれる槍奉行に選ばれた。享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合(無役の旗本)に列する。享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けた。享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77。 貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶川頼照」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kajikawa Yoriteru 」があります。 スポンサード リンク
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