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梶田 半古(かじた はんこ、明治3年6月25日〈1870年7月23日〉 - 大正6年〈1917年〉4月23日)とは、明治時代から大正時代にかけての日本画家。本名は錠次郎(ていじろう)。初め英洲と号す。二度目の妻は尾崎紅葉門下の閨秀作家北田薄氷〔きただ うすらい。結婚は明治31年(1898年)半古28歳の時。同じく紅葉に師事した泉鏡花の『薄紅梅』は半古と薄氷をモデルとした小説だが、美人と名高かった薄氷に対する硯友社の作家たちの憧れを反映してか、半古は悪役として書かれている。なお、半古は2度妻と死に別れ、3回結婚した。〕。 == 来歴 == 明治3年6月25日(1870年7月23日)、彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた。家は代々幕府の鷹匠だったが、父は彫金を業としていた〔政晴の彫金作品については、久保恭子「資料紹介 ~審査の現場から~ 梶田半古の父・政晴の小柄」(『刀剣美術』第590号、2006年3月、34頁)に、白黒ながら写真が掲載されている。〕。家業は弟が継ぎ、幼少から画才のあった半古は明治15年に下谷練塀尋常高等小学校を卒業すると、苦しい家計を助けるため、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運んだという。明治16年(1883年)13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子鍋田玉英〔この玉英という絵師は、当時ですらあまり知られておらず、「半古の口から話されたことはない」との証言があり(山内金三郎(神斧)「梶田畫塾の思い出」『大和文華』18号所収、1951年)、遺作を見るに凡庸な絵師だったようだ。〕について絵を学ぶ。翌年、眼病により絵画修業を中断し琴や月琴で身を立てようとするが、一年程で病は癒え再び画道に戻る。 明治18年(1885年)、15歳で今度は鈴木鵞湖の子で石井柏亭・鶴三の父にあたる南画家・石井鼎湖に就いたが、同年に父が亡くなったためこれを中断する。半古は家族を養うため、松尾儀助らが横浜で設立した日本の工芸品輸出会社「起立工商会社」で、工芸品の下絵を描いていた。この会社で同じく図案を描いていた菊池容斎の門人鈴木華邨に教えを受ける〔華邨は、後年半古を門人とはしていないが、面倒を見た旨を回想している。〕。華邨から菊池容斎の木版画集『前賢故実』を紹介され、全図を暗記するほどまでに模写、独学で人物画を修得している。この成果が早くも明治19年(1886年)の東洋絵画共進会で褒状という形で現れ、その後明治24年(1891年)日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として加わる。 明治29年(1896年)日本青年絵画協会が日本絵画協会に発展し、また明治31年(1898年)には日本美術院が創立されるに及んで、特別賛助会員となって活躍。両会連合の共進会に『春宵怨』(明治35年〈1902年〉)や、『豊年』(明治36年〈1903年〉、現在所在不明)など浪漫的な作品を発表、類型的な旧派の作風に抗して斬新な写実表現に力量を示し、新日本画の開拓に挺身した。明治40年(1907年)の文展開設後は、自身の健康状態の悪化もあり、審査員に選ばれず、作品も一切出品していない。ただし、翌年の国画玉成会では審査委員を務めている。大正6年(1917年)4月11日より重体に陥った折には、半古を敬愛する弟子たちは半古宅の隣に家を借り、垣根を取り払って看病に努めたという。しかしその甲斐なく、4月23日肺患により死去。享年48。墓所は巣鴨の染井霊園にあり、傍らには弟子の小林古径の筆になる「梶田半古先生之碑」が立っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「梶田半古」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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