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棒道(ぼうみち)は、武田晴信(信玄)が開発したとされている軍用道路。八ヶ岳南麓から西麓にかけての甲信国境(甲斐国(山梨県)と信濃国(長野県)の境)を通る。甲斐国北西部の逸見筋(現在の北杜市域)にあたる山梨県北杜市(旧北巨摩郡小淵沢町、長坂町)や長野県富士見町には現在でも上の棒道、中の棒道、下の棒道の三筋が残されており、それぞれ市・町指定の史跡となっている。地元では信玄棒道と呼ばれており、「棒道」の由来は、荒野にまっすぐ一本の棒のように存在していたので棒道と呼ばれるようになったとされる。別名は大門嶺口(だいもんどうげぐち)。 == 「高見沢文書」に見られる甲斐・諏訪間の道 == 『吾妻鏡』治承4年9月15日・24日条によれば、治承・寿永の乱において以仁王の令旨に応じて挙兵した甲斐源氏の一族は、信濃国の平家方を討伐すると9月14日には甲斐へ帰国し、同日夜には「逸見山」において伊豆国の源頼朝の使者・北条時政に対面したという。甲斐源氏の一行は9月24日に時政とともに石和御厨(笛吹市石和町)へ移動している。「逸見山」の所在地は不明であるが、八ヶ岳南麓の逸見牧・逸見荘の存在した谷戸城(北杜市大泉町)・若神子城(北杜市須玉町)に比定する説が見られる。「逸見山」の所在を八ヶ岳南麓とした場合、後代には甲斐から信濃へ向かう棒道が通過していることから、平安後期においても前身となる道が存在していた可能性が考えられている。 棒道は戦国時代の古文書や『高白斎記』、『勝山記』など武田氏側の記録、「守矢家文書」など信濃の記録史料にも一切みられず、長野県南佐久郡佐久穂町高野町の「高見沢文書」に含まれる天文21年(1552年)10月6日付武田晴信印判状を初見とする説がある〔原本は個人所蔵。『戦国遺文』、『山梨県史』資料編4県内文書、『信濃史料』第11巻などに収録、『茅野市史』資料集中世には写真図版が収録。〕。これは甲府から信濃諏訪郡へ至る道の建設を「勧進」により行わせ木々の伐採を命じている内容で、武田氏龍朱印があるが宛名部分はすり消されている。高見沢文書には甲斐・諏訪間の道が「棒道」であるとは記されておらず、評価を巡っては論争がある(後述の棒道論争)。 甲斐国守護の武田氏は信虎後期から佐久郡など信濃への出兵を行っているが、武田晴信は家督継承後に信濃侵攻を本格化させ、高見沢文書の天文21年段階では中南信地域まで確保し信濃旧族の村上氏や小笠原氏を駆逐し、川中島の戦いに至る越後上杉氏の対決が本格化している時期にあたり、長野県茅野市の方面へ最短で至るように作られている。天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて重要な役割を果たしたとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「棒道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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