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棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 == 来歴・人物 == 第三高等学校卒業後、東京帝国大学法科大学に進み、在学中に新人会に参加した。また、麻生久、山名義鶴と社会問題研究会である木曜会を結成した。この木曜会には後に岡上守道、佐野学、野坂参三が参加した。 東京帝国大学在学中から麻生らと共に吉野作造や安部磯雄の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の鈴木文治に断られ、1917年卒業と共に司法官試補となった。翌1918年、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、1919年には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。1920年8月に東京連合会主事、10月には日本労働総同盟友愛会中央委員に就任した。1921年にアナキストに対抗して、「労働組合へ帰れ」という論文を書き、知識階級排斥の標的とされ、東京連合会主事を辞任、翌1922年にヨーロッパ外遊に出た。 ヨーロッパ外遊では、まずドイツを経てジュネーヴに赴き、森戸辰男、浅利順四郎などの助力を得て第4回ILO会議で日本政府の憲章違反を暴露した。更に1923年7月にソ連に入り、ホー・チ・ミンや片山潜らと交流した。しかし、同年11月体調を崩して帰国した。 1924年、淡路島洲本町に移り、1926年に日本労働組合同盟会長、日本労農党中央執行委員に就任。1928年に洲本町会議員となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙に兵庫第2区から出馬したが、落選した。 1936年、郷里の長野県松本市に転居し、翌1937年4月に執行された第20回衆議院議員総選挙に長野第4区から出馬したが、次点で落選した。1942年、第21回衆議院議員総選挙への出馬を企図したが、出馬を辞退。同年5月の松本市会議員選挙で松本市会議員に当選した。 1946年、日本社会党から第22回衆議院議員総選挙に立候補し初当選を果たしたが、東亜連盟への関与から公職追放を受けた。公職追放解除後の1949年執行の第24回衆議院議員総選挙は落選、翌1950年の第2回参議院議員通常選挙には当選した。1960年日本社会党を離党し、民主社会党結成に参画したが、1962年に政界を引退した。 1973年2月20日に心筋梗塞のため、自宅で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「棚橋小虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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