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棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう、1860年5月21日(万延元年4月5日) - 1921年(大正10年)8月16日)は日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて奈良県・平城宮の保存活動を行った。 == 生涯 == 1860年5月21日(万延元年4月5日)誕生。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた〔2010年12月23日読売新聞朝刊奈良版 2015年9月9日ヨミダス歴史館で閲覧〕。 江戸時代に幕府の役人北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年に奈良県技官で東京大学名誉教授の関野貞・同じく奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された〔1936年9月17日読売新聞朝刊 2015年9月9日ヨミダス歴史館で閲覧〕。しばしば観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、棚田は場所を知らず答えることができなかった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡の保存と顕彰に一生をかけることを決意した〔1968年10月6日朝日新聞朝刊 2015年9月9日聞蔵ビジュアルⅡで閲覧〕。 1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積みになっている有様を見て、次のように言って涙を流したという〔。 これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込んでいった。平城宮の啓発のために宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした〔。また、1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織した〔ほか、1912年3月には当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。〔1979年6月7日読売新聞朝刊 2015年9月9日ヨミダス歴史館で閲覧〕〔。また、棚田は度々上京して政財界の要人らに陳情を繰り返した。このロビー活動には当時にして2000円以上の私財を投じており〔1903年10月8日朝日新聞朝刊 2015年9月9日聞蔵ビジュアルⅡで閲覧〕、活動資金のために自宅を売却し、奈良市初の温泉宿を開業して売り上げを充てたが、暮らしは窮乏を極めた〔。 平城遷都1200年にあたる1910年、宮内省から奈良県に宮跡記念碑建立のための下賜金が下され〔、これを受けて棚田は「平城宮阯建設地鎮祭」を開催した〔。また、実現はならなかったが大内裏に「平城神宮」を造営する計画を立案し、華族や高官らの支援も得て遷都1200年祭の実施に寄与した〔2001年12月9日毎日新聞朝刊大阪版 2015年9月9日毎索で閲覧〕。翌1911年には貴族院議員徳川頼倫の南葵文庫内に「大極殿阯保存会」を設立〔〔〔 この後、溝辺文四郎、山下鹿蔵らと共に資金を集め、生駒郡都跡村字佐紀の平城宮跡地10町歩を買収しての保存顕彰を計画したが〔2008年10月29日毎日新聞朝刊奈良版 2015年9月9日毎索で閲覧〕、奈良県当局と意見が衝突し頓挫した〔。この際、ある新興教団から教団が土地を買上げ保存会に寄贈するという案を持ちかけられ棚田も承諾したが、のちに土地が教団指導者の個人所有となり教団が直接保存に関わろうとしていることが発覚し、棚田自身も厳しい批判にさらされた〔〔。 1921年8月16日、人間関係のトラブルにより〔自決。喉を突いた〔とも割腹した〔ともいわれる。享年62。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「棚田嘉十郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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