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棟方志功 : ミニ英和和英辞書
棟方志功[むなかた しこう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [むね]
 (n) ridge (of roof)
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [こころざし]
 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive 

棟方志功 : ウィキペディア日本語版
棟方志功[むなかた しこう]

棟方 志功(むなかた しこう、1903年明治36年)9月5日 - 1975年昭和50年)9月13日)は日本人板画家青森県出身。20世紀美術を代表する世界的巨匠の一人。
川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意〔土方明司「川上澄生「初夏の風」 - 詩魂の画家十選1」『日経新聞』2015年2月16日付朝刊。〕。1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
== 来歴 ==
1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏を病み、以来極度の近視となる。
少年時代にゴッホ絵画に出会い感動し、「ゴッホになる」と芸術家を目指した。青森市内の善知鳥神社でのスケッチを好んだ。
1924年大正13年)、東京上京する。帝展白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。1928年(昭和3年)、第9回帝展に「雑園」(油絵)を出品し、入選する。1930年(昭和5年)から文化学院で美術教師を務める。1932年(昭和7年)日本版画協会会員となる。
1934年(昭和9年)、佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。1936年(昭和11年)、国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦河井寛次郎民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことになる。
1945年(昭和20年)、戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町(現南砺市)に移住。1954年(昭和29年)まで在住した。志功はこの地の自然をこよなく愛した。1946年(昭和21年)、富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎(りうがさい)」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑(あいぜんえん)」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。
1956年(昭和31年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。1969年(昭和44年)2月17日青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。
1975年(昭和50年)9月13日、東京にて肝臓癌のため〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)28頁〕永眠。同日付で贈従三位。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある
〔生前に自ら設計。夫婦連名の夫婦墓となっている。()〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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