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棟田 博(むねた ひろし、1909年(明治42年)11月5日 - 1988年(昭和63年)4月30日)は自己の体験を元に戦争を描いた小説家。いわゆる兵隊作家のひとり。 == 経歴 == 1909年(明治42年)11月、岡山県津山市に生まれる。家は料亭を営み、常に芸妓の姿や三味線の音が絶えなかったという。岡山津山中学校を経て、早稲田大学文学部国文科を中退する。地元に帰り、短歌同人に参加するなど、文学青年の道を歩む。 1928年(昭和3年)に徴兵検査甲種合格、1929年(昭和4年)1月、岡山歩兵第10連隊に現役兵として入営する。 時の連隊長は「俊秀雲の如し」と言われた陸軍士官学校十六期生のなかでも、特に逸材との噂の高い小畑敏四郎大佐であった。一年志願兵(のちの幹部候補生)の資格が有るにもかかわらず、一兵卒として軍務に就き、伍長勤務上等兵として1930年(昭和5年)11月に満期除隊。上京して文学活動を模索する。 1937年(昭和12年)、29歳の後備役のときに日中戦争が勃発し、8月に赤柴部隊の上等兵として「第五動員の甲」により応召。8月末に出征。山東省に上陸し、歩兵分隊長として徐州会戦に参加する(作戦中に伍長に昇進)。12月、済南に入城し、津浦戦線を経て、1938年(昭和13年)5月、台児荘の戦闘で重傷を負う。このとき、岡山歩兵第10連隊は中国軍の包囲に会い、全滅寸前の苦戦を強いられる。1939年(昭和14年)、青島陸軍病院から内地還送、原隊の未教育補充兵の助教を務めたのちに除隊した。 同時期、手紙を通して長谷川伸に師事し、長谷川の勧めにより自身の体験を「分隊長の手記」として雑誌『大衆文芸』(1939年(昭和14年)3月~1942年(昭和17年)5月)に発表する。掲載中の1939年(昭和14年)のうちから作品は単行本化され、たちまちベストセラーになる。単行本として発刊後、2ヶ月ほどで30版を記録した。(1942年(昭和17年)、同作で野間文芸奨励賞を受賞。) 太平洋戦争中は、陸軍の従軍作家としてジャワ、ビルマを巡り、インパール作戦にも参加する。この時ラングーンでチャンドラ・ボースに会見する。後に『革命児チャンドラ・ボース』(国土社)として児童向けのボースの伝記を書いている。 戦後は、細々と論評、時代小説などを書いていたが、1955年(昭和30年)に発表した『サイパンから来た列車』が評判になる。ついで「拝啓天皇陛下様」がベストセラーになり、1963年(昭和38年)には主演渥美清、監督野村芳太郎で映画化され,大いに話題を呼ぶ。翌年には続編も作られた。1971年に発表した小説『美作ノ国吉井川』は、1972年から1973年にかけて『吉井川』としてテレビドラマ化された〔 - 毎索にて閲覧〕。 1980年(昭和55年)より光人社から『陸軍よもやま話』『続 陸軍よもやま話』『陸軍いちぜんめし物語』を相次いで発表する。棟田の言うところの「戦争のセの字も無い」昭和初期の古き良き時代の、牧歌的な兵営生活をコミカルに描き、戦争末期の殺伐とした軍隊生活しか知らなかった世代に衝撃を与えた。 1988年(昭和63年)4月、茅ヶ崎市において肺癌のため死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「棟田博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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