|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 森 : [もり] 【名詞】 1. forest ・ 内 : [うち] 【名詞】 1. inside ・ 俊 : [じゅん] 【名詞】 1. excellence 2. genius ・ 之 : [これ] (int,n) (uk) this
森内 俊之(もりうち としゆき、1970年10月10日 - )は、将棋棋士。十八世名人資格保持者。 棋士番号は183。勝浦修九段門下。神奈川県横浜市出身。 日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月 - 2011年3月)。 == 棋歴 == === プロ入りまで === 将棋を始めたきっかけは、森内が小学校3年生の頃、学校の休み時間にクラスメート内で流行していた、いい加減な将棋遊びに参加したという、ありふれたものだった。だが、このゲームに魅力を感じた彼は父親に手ほどきを受け、正式な将棋を指すようになる。 家で将棋に熱中している森内の姿を見ていた彼の祖母は、あるとき、雑誌『将棋世界』を孫に渡した。『将棋世界』との出会いをきっかけに、森内は将棋の新しい世界を知り、将棋にのめりこんでいく。毎週土曜日に将棋会館で行われる将棋教室に通うなどし、本格的に将棋を学び始める。それから1年ほど経つと、各地のデパートで開催される将棋大会にも参加するようになった。 同学年の羽生善治と出会ったのはこの頃だった。最初の対戦はある将棋大会の予選で森内が勝ち、次の対戦は同大会の決勝トーナメントで羽生が勝った。 ある将棋大会で森内の初手▲5八飛に対し、羽生の△5二飛という出だしの将棋があった〔「将棋マガジン」(日本将棋連盟)1996年6月号『佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック』〕。 5年生の頃、奨励会試験を受験するか迷った末、「自分はまだ力不足」だと判断し、翌年に受験することを決意。 同時に、「棋士になる」という目標が明確になり、勉強にも熱が入るようになった。 1982年、第7回小学生将棋名人戦で3位。このときの優勝者は羽生。同年12月、関東奨励会入り。同期合格者17名のうち、小学生は森内、羽生、郷田真隆の3名のみであった。この年度は受験者が多く、高い競争率であった。なお、二次試験で当時唯一の女性奨励会員だった林葉直子女流王将と香落ちで対局し、勝利している。 三段の頃、島朗六段主宰の研究会(いわゆる「島研」)に、佐藤康光二段とともに参加、研鑽を積む。 1987年5月13日にプロ入り(四段に昇段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期新人王戦(1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝した(同棋戦ではこれを含め、通算3回優勝している)。 また、第10回「若駒戦」(奨励会有段者による非公式棋戦)でも同様に、途中で四段になって優勝している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森内俊之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|