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森 周峰(もり しゅうほう、元文3年〈1738年〉 - 文政6年6月22日〈1823年7月29日〉)とは、江戸時代後期の大坂の絵師。江戸後期の大坂画壇で活躍した森派の絵師の一人。 == 来歴 == 吉村周山及び月岡雪鼎の門人。大坂の人。姓は森、名は貴信。俗称は林蔵。周峰(峯)、杜文泰、鐘秀斎と号す。森如閑斎の次男であり、森陽信の弟、森狙仙の兄であった。 舟町、梶木町、江戸堀二丁目などに住んでいた。幼い頃から父・如閑斎から手解きを受けたと思われるが、次いで吉村周山に絵を学ぶ。周山は狩野派の絵師で、大岡春卜と並び大阪画壇の狩野派の中心人物であった。後に雪鼎の門人となっとされる。作画期は安永(1772年-1781年)から文化(1804年-1818年)で、文人画が隆盛していた大阪において、写生画派の名声を高くしている。安永4年(1775年)刊行の『浪華郷友録』の中に、当時38歳の周峰の名前が初出する。二年後の『難波丸綱目』では唐絵師の項目に記され、絵師の項目を見ると「梶木町法橋周峯」とあり、この少し前に法橋に叙されたと推測できる。また、安永8年(1779年)から木村蒹葭堂と彼の没年まで交流し、当時の大阪文化人グループの中で活躍したことが窺える。 安永9年(1780年)刊行の狂歌本『狂歌両節東街道』(一本亭芙蓉花編)には、桂宗信とともに挿絵を描いている。また天明2年(1782年)には兵庫の高砂神社に絵馬「関羽図」を奉納し、寛政2年(1790年)には京都の八坂神社の絵馬「力士図」、仙洞御所の杉戸絵「松孔雀図」、「猿図」を描いている。享和2年(1802年)、法眼に叙せられた。文化7年(1810年)に行われた長沢芦雪追慕展覧会に、「候先生図」という作品を出品している。86歳で死去。墓は、森家の菩提寺である大阪市北区兎我野町の西福寺。 現存する森派の合作作品を調べると、その殆どに周峰が揮毫しており、森派で法橋・法眼に任じられたのは周峰だけであることから、森派のリーダー的存在だった事がわかる。猿の絵に専心した弟狙仙とは対照的に、画風は甘美で画域は広く構図も全体的によくまとまっている。 周峰の子の森徹山は狙仙の養子となり、後に円山応瑞と縁組している。自らは狙仙の子の雄仙を跡取りとしたが、この雄仙は画才に優れなかったらしく、作品は特に知られていない。他の弟子に柳川藩御用絵師となった北島勝永など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森周峰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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