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森岡 元知(もりおか もととも)は、幕末の弘前藩士。 == 生涯 == 森岡元侯の嫡男として生まれた。天保11年(1840年)に家督を継ぎ、大寄合格、同12年(1841年)馬廻役組頭、同14年(1844年)手廻役兼用人となる。しかし、主君津軽信順が嗣子の無いまま隠居したため、後継者問題が発生し、元知ら重臣は津軽順承を立てることに反対した。理由は津軽氏の血統を絶やさないことを条件に大道寺順正、杉山成章を遣わしたにもかからず、2人が裏切り、順承が立てられたためである(順承は松平信明の息子で黒石津軽氏の養子となった)。それを聞いた津軽範疇、森岡元知ら重臣数十名は連判して、近衛家、中山忠能、徳川斉昭らに直訴した。しかし反対運動は失敗し、同年解任され、蟄居させられた。弘化3年(1846年)には多田三左衛門の元にお預けになった。嘉永3年(1850年)に解放され、嫡男富太郎に200石を与えられた。文久3年(1863年)、江戸家老手伝となったが、用人西館建哲と人材登用を巡って激しく対立した。元知は山田登、黒滝主殿の登用を、建哲は西館平馬、八木橋其母の登用を主張した。両者共に譲らず、元知は強硬に近衛家に働きかけるなどしたため。解任された。 明治8年(1875年)、十二等準格中学校取締に任じられるも、翌年11月死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森岡元知」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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