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森忠徳 : ミニ英和和英辞書
森忠徳[もり ただのり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 

森忠徳 : ウィキペディア日本語版
森忠徳[もり ただのり]

森 忠徳(もり ただのり)は、播磨赤穂藩の第10代藩主。赤穂藩森家16代。
文化15年(1818年)3月24日、第9代藩主・森忠敬の三男として生まれる。父の死後、家督は兄の忠貫が継いでいたが、文政10年(1827年)5月に早世した。忠貫には嗣子が無く、藩では改易や減封を恐れて6月に忠徳を忠貫の替え玉(表向きは同一人物)として擁立した。そのため記録上では、文政7年(1824年)8月5日に家督を継いだことにされている。
天保3年(1832年)12月26日、従五位下・信濃守に叙位・任官する。若年のため、分家の森主税家出身の家老森可真が藩政を行い、緊縮財政政策を採用して藩財政の再建を目指した。しかし、天保の大飢饉でさらなる被害を受け、窮した可真は借金返済の繰り延べを商人に求めたが、逆にその商人らに大坂城代に訴えられるほどで、結局のところ天保9年(1838年)に失脚する。
代わって藩主一門の森采女家出身の家老・森三勝が実権を握り、倹約を中心とした5ヵ年計画を行ったが、嘉永2年(1849年)に借金が27万両になるなどして効果がなく、失敗して失脚する。今度は、藩主一門の森続之丞家出身の家老・森可則勘定奉行鞍懸寅次郎による改革が行われる。この間、忠徳は病弱で藩政を執ることもできず、長男・忠弘が名代として藩政を行っていたが、この改革も忠弘の急死によって失敗し、可則らは可真によって追放・蟄居に処せられ、以後は可真によって赤穂藩は専横されることとなる。
忠徳は文久2年(1862年)1月21日、次男・忠典に家督を譲って隠居する。明治14年(1881年)12月27日に死去した。享年64。
== 関連項目 ==

*末期養子



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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