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武蔵(むさし、男性、1972年10月17日 - )は、日本の空手家、元キックボクサーである。本名は森 昭生(もり あきお)。大阪府堺市南区出身。正道会館所属(参段)。近畿大学短期大学部商経科卒。実弟のTOMOと共に設立した個人事務所パウンド・フォー・パウンドに所属し、タレント、俳優としても活動する。血液型はA型。蜷川氏の子孫で、蜷川新の曾孫(後述)。 旧リングネームはムサシ。リングネームの由来は右も左も両方撃てる二刀流であることから。リングネームの命名は佐竹雅昭。〔佐竹雅昭『まっすぐに蹴る』(角川書店)には「『武蔵』とは自分が名付け親でもあるが、やっぱり彼に『武蔵』はもったいない。僕の中ではやっぱり『タケゾウ』です」という記述がある。〕弟はキックボクサーのTOMO。トレーナーは元WBA世界スーパーミドル級チャンピオンのフランク・ライルズ。 == 来歴 == 1995年9月3日、K-1 REVENGE IIでパトリック・スミスとデビュー戦を行い、2RKO勝ち。当時は83kgであった。 1996年5月6日、K-1 GRAND PRIX '96で唯一の日本人として出場し、ベスト4まで進出した。本人はこの大会での大活躍を「ただのビギナーズラックでした。」と語っている。この大会以降、1999年初頭まで12試合で勝ち星が2つという大スランプに陥る。 1998年5月24日、K-1 BRAVES '98で佐竹雅昭と対戦し、5R引き分け。 1999年2月28日、敵地イギリスでカークウッド・ウォーカーの保持するWAKO PRO世界ムエタイヘビー級王座に挑戦するも、1-2で判定負け。武蔵はダウンこそ奪えなかったものの攻撃は積極的であり、判定負けという結果に場内からはブーイングも起きたという。 1999年6月20日、K-1 BRAVES '99でカークウッド・ウォーカー(イギリス/王者)に3度目の挑戦(過去2度敗退)で、5R左ミドルキックでKO勝ちしWAKO PRO世界ムエタイヘビー級王座を獲得。 1999年10月3日、K-1 GRAND PRIX '99 開幕戦のGP1回戦で佐竹雅昭と再戦。1Rにダウンを奪われたものの5R判定勝ち。この判定に佐竹は激怒しK-1を去ることになった。試合後、「もし再戦ということであれば、自分はやります。自分は自分の闘いをやっただけ。その結果ジャッジがああいう結果を出して、僕はそれに従っただけです。でも、自分の闘いとして納得いくものではなかった、という不満は残ってます。」とコメントした。 1999年12月5日、決勝大会準々決勝では、ミルコ・"クロ・コップ"・フィリポビッチに2RKO負け。右ミドルキックでミルコのあばら骨にヒビを入れるなど好調な出だしだったが、バッティングや投げ技などの反則戦法でペースと右目の視界を失い、最後には背を向けてしまう場面もあった。試合後には「取りあえず練習してきた技は、ローも入ったしボディブローも入ったし、結構向こうは動揺していたと思う。だから、自分ではいい感じな出だしだったんで、力を出し切れないで悔しいですね。」とコメントした。 2000年1月25日、地元日本で全盛期真っ只中のピーター・アーツと対戦。1Rから左ミドルをヒットさせるなど本戦3Rを有利に進めたにもかかわらず、全ジャッジに30対30のドローとされ、スタミナの切れた延長RでKO負けを喫した。同大会では、試合をインタビュールームで観戦していた天田ヒロミが、本戦3Rをドローとされたことに対して非常に驚いている様子が放送されている。この試合についてアンディ・フグは「アーツ戦こそが武蔵の弱さが出た試合だった。運良くアーツが不調だったのに最初から勝てないと諦めているから負けるんだ」とコメント(格闘技通信No.249のインタビューより)しており、日本人初のアーツ越えを不運な形で逃すこととなった。 2000年3月19日、アンディ・フグに5R判定負け。ジャッジの一人はドローを付けたことについてアンディ・フグは「ドローをつけたのは冗談だと思います。その審判はコメディアンか何かだったのでしょう」とコメントしている。また、大会後の格闘技通信では「武蔵流」という文字に大きく×マークが付いたマークが表紙を飾り、武蔵の完敗を現していた。 2000年7月7日、K-1 JAPAN GP 2000に出場。前年に続いてJAPAN GP2連覇を達成し、K-1を去った佐竹に代わり改めて日本人最強を証明した。 2000年12月10日、決勝大会準々決勝でレイ・セフォーに1RKO負け。対戦予定だったマイク・ベルナルドが直前で欠場となり、急遽トリッキーなセフォーとの対戦が決まった。セフォーの素早い攻撃に対応できずに背を向けてしまうシーンも見られた。 2001年4月15日、アーネスト・ホーストに5R判定負け。1998年の試合では何もできずにKOされた相手とほぼ互角に渡り合ったことで、武蔵の成長が見られた。 2001年6月24日、エベンゼール・フォンテス・ブラガと対戦。前半は武蔵が優勢に試合を進めたが、ブラガがクリンチ状態から意図的に足を掛けて武蔵をマットに倒し、後頭部を強打。なんとか試合を続行するものの、それ以降は記憶のない状態で闘っていたと試合後に語っており、結局判定1-0のドローに終わる。このブラガの行為が「注意1」であったことに対し、武蔵は「あれで注意1じゃ反則したもん勝ちですね」と皮肉った。 2001年8月19日、2連覇中のJAPAN GPに出場。準々決勝で大石亨、準決勝で中迫剛にそれぞれ3R判定勝ちで決勝に進出するも、連続KOで勝ち上がってきたニコラス・ペタスに延長でダウンを奪われ判定負け。試合後、ジェロム・レ・バンナに「お前の方が強いのになぜ負けたんだ!」と叱られたという(「K-1 10年の奇跡」のバンナインタビューより)。また、同インタビューでバンナは武蔵について「俺達は同志だし、俺はすごい武蔵ファンなんだ。」と語っている。 2002年1月11日、一撃旗揚げ戦のメインイベントで野地竜太と対戦し、判定勝ちを収めた。 2002年3月3日、K-1 WORLD GP 2002 in NAGOYAでグラウベ・フェイトーザと対戦。試合終了後には互いに勝利をアピールしたが、お互いに決め手が無くドローとなった。 2002年4月21日、K-1 BURNING 2002でK-1デビュー戦のセーム・シュルトと対戦。パンチを何度もヒットさせ判定にもつれ込むが、1-2の微妙な判定で敗れる。 2002年7月14日、K-1 WORLD GP 2002 in FUKUOKAでジョシー・デンプシーと対戦。パンチと蹴りを何度もヒットさせ判定勝ち。 2002年9月22日、JAPAN GPに出場し3度目の優勝を達成。2年ぶりに決勝大会へ進出する。 2002年12月7日、決勝大会準々決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。アグレッシブに打ち合うが、攻撃力の差で徐々に押され2RKO負け。K-1最後の解説となった石井館長には「絶対に背中を向けちゃダメ。力はあるんだから自信を持って打ち合わないと」と指摘を受けた。 2003年6月29日、K-1 BEAST II 2003でモンターニャ・シウバと対戦。シウバが反則のマウントパンチを連打するという前代未聞の行動を取り、武蔵の反則勝ちとなった。武蔵はルールを無視したシウバに対して激しい怒りを見せた。K-1競技統括プロデューサーの角田信朗は、「モンターニャをK-1から追放したい。また出すようなら僕は競技統括を辞めます」と語った。 2003年7月27日、メルボルンでクリス・クリソポリディスと対戦。ボディを効かせ有利に試合を進めたが、相手の地元であったためドローとなった。 2003年9月21日、JAPAN GPに出場し4度目の優勝を達成。同大会にはモンターニャ・シウバも出場しており、武蔵が判定で勝利した。 2003年12月6日、K-1 WORLD GP 2003 決勝大会に出場。ジェロム・レ・バンナ、アーネスト・ホースト、マーク・ハント、ステファン・レコ、ミルコ・クロコップら優勝候補がことごとく欠場した大会ではあったが、準々決勝でレイ・セフォーに判定勝ち、準決勝ではピーター・アーツに2-0で判定勝ちし、1994年大会の佐竹雅昭以来、日本人として9年ぶりのK-1 GP準優勝を記録した。しかし、セフォーが病気で体調不良であることを大会前日会見で明かしていたのに加え、アーツ戦の微妙な判定に対してもアーツは不満を示し、会場で観戦していたアーネスト・ホーストも「あれはアーツの勝ちか、最低でもドローで延長が妥当だ」と語った。だが、アーツ戦後の会場からは「武蔵コール」が起きていた。2000年の初対決では微妙な判定で逃した日本人初のアーツ越えという快挙をついに達成したが、優勝候補不在の大会であったためあまり評価は上がらなかった。 2004年3月27日、K-1 WORLD GP 2004 in SAITAMAで曙と対戦。押し倒された際に後頭部へのパンチを連打されるという反則攻撃を受けるが、試合を続行し判定勝ち。レフェリーの角田信朗がルールを無視した行動を取り、問題視された。 2004年5月3日、新日本プロレス所属の柴田勝頼と異種格闘技戦を行い左ハイキックで勝利。この日、記者会見で柴田と乱闘したり、試合で倒れている柴田に攻撃(反則)したりと一度だけプロレスを体験する。 2004年6月6日、K-1 WORLD GP 2004 in NAGOYAでレイ"マーシレス"マーサーと対戦。1Rにハイキックでダウンを奪い判定勝ち。 2004年9月25日、シリル・アビディを相手にキレのある動きで蹴り技を次々のヒットさせて判定勝ち。解説の谷川貞治と長嶋一茂にも絶賛され、昨年の準優勝者の実力を見せつけた。 2004年12月4日、K-1 WORLD GP 2004決勝大会の準々決勝で絶好調のレイ・セフォーと対戦。ハイレベルかつテクニカルな攻防戦となり、微妙な判定で勝利。 準決勝ではガオグライ・ゲーンノラシンと対戦。素早い動きに手を焼くものの、徐々にローを効かせて延長判定勝ち。 決勝戦では、レミー・ボンヤスキーと対戦し、第1Rにダウンを奪われるが、微妙な判定で延長に突入し、再延長戦の末に判定負け。大会後、武蔵とボンヤスキーの両者に対する贔屓判定に対して、大会主催者のFEGとフジテレビに抗議の電話とメールが殺到した。大会から数日後、K-1公式サイトにて再審議の結果が発表されたが、判定は覆らなかった。 2004年12月31日、K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!でショーン・オヘアと対戦。2Rに左ハイキックでKO勝ち。 2005年4月30日、ラスベガスでリック・ルーファスと対戦。ローを効かせ有利に試合を進めたが、相手の地元であったため一人のジャッジはルーファスを支持し、スプリット判定での勝利となった。 2005年7月29日、K-1 WORLD GP 2005 in HAWAIIでリカルド・ノードストランドと対戦。蹴りを中心に試合をコントロールし、判定勝ち。 2005年9月23日、K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタに蹴りを当てつつパンチを殺して判定勝ち。 2005年11月19日、K-1 WORLD GP 2005 in TOKYO 決勝戦では、準々決勝でルスラン・カラエフと対戦し、延長判定勝ち。ローを連続して当てたものの、本戦終了間際と延長R終了間際でカラエフのラッシュを連続で被弾し、微妙な判定となった。 準決勝ではカラエフ戦で受けたダメージがたたり、グラウベ・フェイトーザに後ろに下がった隙をつかれ左跳び膝蹴りでKO負け。約3年ぶりのKO負けとなった。 2005年12月31日、K-1 PREMIUM 2005 Dynamite!!でボブ・サップと対戦。後頭部への反則パンチを連打されるという反則攻撃を受けるが、試合を続行し判定勝ち。アクシデント後も試合を続けたことに対して「あのままでも勝てたかも知れない。でも、お客さんが喜ばない勝ちなど欲しくない。ハンデはあるが、やることの方が大事だと思っていた」と語った。 2006年4月29日、K-1 WORLD GP 2006 in LAS VEGASで前年優勝のセーム・シュルトに判定負け。 2006年7月30日、K-1 REVENGE 2006 K-1 WORLD GP 2006 in SAPPORO 〜アンディ・フグ七回忌追悼イベント〜で前年準優勝のグラウベ・フェイトーザとリベンジマッチを行う。試合終了間際にダウンを奪われ判定負け。 2006年9月30日、K-1 WORLD GP 2006 in OSAKA 開幕戦で、GP初出場の新鋭ハリッド"ディ・ファウスト"に2-1の判定負け。この試合で武蔵はパンチの連打で圧倒される場面もあったが、ジャッジの一人は武蔵を支持した。この件についてK-1プロデューサーの谷川貞治も「武蔵を支持したジャッジはおかしいですね」とコメントしていた〔格闘技通信 2006年11月8日号、ゴング格闘技 2006年11月23日号〕。 2006年12月2日、K-1 WORLD GP 2006 in TOKYO 決勝戦のGPリザーブマッチでピーター・アーツに1RKO負け。ハリッドに敗北したショックで出場するかどうか迷っていたこともあり、オファーを断らない武蔵にしては珍しく試合の受諾に時間がかかった〔“日本のエース”武蔵、リザーブファイトから奇跡の逆転優勝狙う! スポーツナビ 2006年10月17日〕。 2006年12月31日、K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!で元砲丸投げ選手ランディ・キムと対戦しKO勝ち。大晦日にようやく2006年の初勝利を挙げた。 2007年3月4日、ヘビー級タイトル挑戦権をかけて藤本祐介と対戦。第3R終了時の判定でドローとなり、延長戦となるが、テレビ解説を務めていた魔裟斗は「全ラウンドにおいて藤本選手が優勢でしたね。僕の判定は30-27で藤本選手の勝ちでいいと思います」とコメントした。そして延長ラウンド、藤本の左ハイキックを受けKO負け。K-1で初めて日本人相手に敗北。 2007年8月5日、K-1 WORLD GP 2007 IN HONG KONGで開催されたASIA GPへ出場。1回戦でパク・ヨンスのローキックが開始から一分も経たない内に三度も股間に当たり深刻なダメージを負う。特に三回目に関しては、金的からの中断が終わり試合が再開した直後であり、ヨンスがインターバル中にまったく反省したそぶりを見せなかったこともあり、会場からもブーイングが起こった。ドクターストップがかかるほど深刻な状態だったが、精神力の強さを見せて2RKO勝ち。この試合の決着場面で武蔵のパンチでヨンスがダウンした時に武蔵はニュートラルコーナーに戻ろうとしたが、ヨンスが失神して試合が終了した後、急に向き直って倒れているヨンスにさらに追い討ちを掛けようとするという反則を犯した。 続く準決勝では、準々決勝で3度もローブローを受けてダメージの残る股間に王強の膝蹴りが当たり、セコンドからタオルが投入されて一度は武蔵の負けが宣告される。しかし、その直後に「相手の反則による休憩中のタオルは無効」と裁定され続行。この休憩中に判定に不満を抱く王強がリングを出たため試合放棄と見なされ武蔵の勝利となったが、ダメージは大きくドクターストップがかかり決勝には王強が進出した。 2007年9月29日のK-1 WORLD GP 2007 IN SEOUL FINAL16へ主催者推薦枠での出場に最後の望みを寄せていたものの、澤屋敷純一が同枠で出場することになり、6年連続での本大会はならず。 2007年12月8日、K-1 WORLD GP 2007 FINALのスーパーファイトでデビッド・ダンクレイドと対戦。1R終了間際に左ミドルキックでKO勝ち。 2007年12月31日、「K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!」でベルナール・アッカと対戦。1R開始直後にアッカのラッシュで防戦一方となる場面もあったが、冷静に見切りスタミナ切れを誘い、3Rカウンターの左フックでKO勝ち。 2008年4月13日、K-1 WORLD GP 2008 IN YOKOHAMAで澤屋敷純一と対戦し、3ダウンを奪いKO勝ち。全盛期を思わせるキレのある動きを見せ、テレビ解説を務めていた魔裟斗も絶賛した。しかし、ダウンを奪ったハイキックを放った際に古傷である左膝を痛めてしまった。試合後のマイクアピールでは、「95年にデビューしてから突っ走ってきましたけど、あっという間に新しい選手が増えてきました。でもまだまだ自分の居場所はあると思います。年齢はオッサンかもしれないけど、オッサンパワーを見せるぞ!」とコメントした。 2008年6月29日、K-1 WORLD GP 2008 IN FUKUOKAで行われたK-1 JAPAN GPに出場。1回戦で前田慶次郎と対戦し、判定負け。試合後、谷川貞治K-1イベントプロデューサーは「武蔵選手は試合に出られる状態じゃなかったんです。左膝に水が溜まっていました。ですが、福岡を盛り上げないといけないですし、色々なことを考えて、澤屋敷純一選手が出られない中で出てもらったんです。主催者としては、可哀想なことをしてしまいました。今回は感謝していますよ。」と話した。 2008年9月27日、K-1 WORLD GP 2008 IN SEOUL FINAL16でエヴェルトン・テイシェイラと対戦し、3R判定負け。 2008年12月31日、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜」でK-1ルール初挑戦のゲガール・ムサシと対戦。「ムサシ」対決として試合前にゲガールから改名マッチを突きつけられた。日本で行なわれた試合ではあったが、客層の多くがMMAファンであったため日本人の武蔵がブーイングを受ける独特の雰囲気での試合となった。試合は、序盤キックで応戦するものの、ムサシのパンチ主体の攻撃に圧倒され1Rに3度のダウンを喫しKO負け。試合後、「試合で固くなってしまって情けない。次はK-1のリングでムサシとやりたいです。Dynamite!!はリングに上がったらアウェーな感じがしました。ずっとこの名前でやってきて変える気もないし、どんな名前に変えればいいかわからない。」とコメントした。これに対してゲガール・ムサシは「僕は日本人でもなく、K-1ファイターでもないのに、勇気を出してアウェーである日本のリングでK-1ルールで武蔵と戦ったんだから、屈辱を晴らしたいなら僕が住んでいるオランダのリングで総合格闘技ルールで再戦するのが筋じゃないの?」とコメントしている〔格闘技通信 2009年3月号〕。 2009年8月26日、年内での引退を発表。K-1で14年間戦ってきた花道として、ファン投票での開幕戦出場をファンと関係者に直訴した。この武蔵の願いに対し、EPの谷川貞治は「武蔵選手はほとんど主張しないタイプで、大会を盛り上げるために怪我をしているのに試合に出てもらったということがあります。」「いつも勝手な事言ってる選手じゃないんで。初めてかもしれないですね、自分で出たいと言ったのは。わりと何でもこっちの言うことを聞いてくれる選手だったので。誰かとやりたいとか言ったことがないですね。逆にセーム・シュルトとやれと言っても断ったことはないですね。武蔵vsムサシも嫌だったと思いますし。」「そういう意味で感謝している部分もあるし、(開幕戦出場の直訴が)虫のいい話だとは思わないですね。ただし特別扱いは出来ません」と語った。その後、ファン投票枠でのGP出場が決定した。 2009年9月26日、K-1 WORLD GP 2009 IN SEOUL FINAL16で引退を賭けジェロム・レ・バンナと対戦。戦前「最後まで武蔵流を貫く」と発言するも、今までのファイトスタイルとは違いパンチに重点を置いた打ち合うファイトスタイルを展開した。終盤にダウンを奪われ判定負けを喫するも韓国の会場からは大きな歓声と拍手が起こった。 2010年4月3日、K-1 WORLD GP 2010 IN YOKOHAMAにて引退セレモニーが行われ、藤原紀香やジェロム・レ・バンナなどから花束を贈られたほか、師匠の石井和義からは黄金のグローブを贈られた〔武蔵、涙の引退セレモニー 石井館長、紀香さんら花束=K-1 スポーツナビ 2010年4月4日〕。 引退後は、既に2009年8月に弟のTOMOと共に格闘家のプロモーション等を業務とする「株式会社パウンドフォーパウンド」を設立していることから、同社の専務としてタレント兼実業家の道を歩んでいる。 2010年10月23日、Zepp Tokyoで開催された自主興行「MUSASHI ROCK FESTIVAL」の中で、弟のTOMOを相手に再度引退試合(3分2Rのエキシビションマッチ)を行った〔【武蔵ロック祭】実弟TOMOと“武蔵流”引退、最後はメタルバンド結成で熱唱 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年10月23日〕。2009年の引退試合が韓国開催だったため「日本のファンに最後の姿を見せたい」との理由でワンマッチのみ復帰することとなった〔武蔵、引退戦「史上最高の兄弟げんか」 nikkansports.com 2010年8月19日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武蔵 (格闘家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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