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森本厚吉 : ミニ英和和英辞書
森本厚吉[もりもと こうきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [あつ]
 (suf) thickness

森本厚吉 : ウィキペディア日本語版
森本厚吉[もりもと こうきち]

森本 厚吉(もりもと こうきち、1877年3月2日明治10年3月2日) - 1950年(昭和25年)1月31日)は、日本経済学者教育者文化生活研究家
北海道帝国大学元教授、東京文化学園創立者、Ph.D.(経済学)、法学博士。京都府舞鶴市(舞鶴田辺)出身。

== 略歴 ==
 明治10年、京都府舞鶴で生まれ、麻布中の前身である東洋英和学校に入学、英語を学ぶ。英語を学びながら新渡戸稲造の名を知り、明治27年、新渡戸を慕って札幌へ行き、翌年、現在の北海道大学の前身である札幌農学校予科4学年に編入される。そこで新渡戸から英文学と倫理学を学び、非常な影響を受ける。
 同じく新渡戸を慕って札幌にきていた有島武郎と親友になり、親交を深めた。後に二人で「リビングストン伝」を著しているが、これは新渡戸に捧げられ、有島文学の「バックボーン」ともいわれた。
 明治34年に札幌農学校を卒業後、仙台市にある東北学院で教鞭をとり、2年後の明治36年、独力で米国のジョンス・ホプキンス大学大学院に入学、苦学をしながら経済学と歴史を学んだ。
 明治39年帰国し、母校の札幌農学校で教鞭をとりながら、明治40年に再度渡米し、米国で29回の講演をこなし、帰国後、山角静子と結婚した。
 大正4年、北大で経済学及び財政学の講座を担当し、特に消費経済学を研究した。
 文部省からの2年間の米国留学命令で渡米し、ジョンス・ホプキンス大学大学院より「ドクトル・オブ・フィロソフィー」の学位を得て、大正7年帰国した。帰国後、北海道帝国大学農科大学教授となり、大正8年、法学博士の学位を授与される。
 時期を同じくして、東京において文化生活研究会を組織し、米国式の大学教育普及事業を月刊通信教育によって開始した。顧問には有島武郎、吉野作造が就任。その後財団法人文化普及会を設立し、日本最初の集合住宅「文化アパートメント」を建設、経営した。
 昭和2年、理想的な女子教育を行うべく女子文化高等学院を設立した。翌年、専門学校法により財団法人女子経済専門学校に昇格時、国際連盟から帰国した恩師である新渡戸稲造に初代校長就任を依頼する。この時、森本厚吉は「文化生活」の意味を一部の人が誤解し「文化便所」、「文化草履」等浅薄に乱用され始めたことに嫌気がさし、校名から文化を外した。
 その後財団法人女子経済専門学校は後の東京文化学園(現:新渡戸文化学園)へと発展するが、昭和25年、新教育制度への移行時に「文化」が校名に復活することになる。
 昭和7年、多忙のため北海道帝国大学を辞職。女子経済専門学校での教育に専念する。
 昭和24年2月、脳溢血のため倒れる。その後、一時回復するが、昭和25年1月、永眠する(享年73)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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