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森本 太郎(もりもと たろう、1946年11月18日 - )は、京都府京都市出身のミュージシャン、ギタリスト、音楽プロデューサー。元ザ・タイガースのメンバーでギタリストである。立命館高等学校卒業。 ==略歴== 1967年2月5日、ザ・タイガースのギタリストとしてシングル「僕のマリー/こっちを向いて」でデビュー。愛称は『タロー』。 ザ・タイガースの8枚目のシングルおよびアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」収録の『青い鳥』の作詞作曲を担当し、メンバー内でいち早くそのソング・ライティング能力を開花させ、後年プロデューサーとして活躍する才能の片鱗を既に見せていた。 1969年、メンバーの加橋かつみの脱退を受け、ベーシストの岸部一徳の弟、岸部四郎を新メンバーとして加入させる。G.S.ブームが急激に退潮していく中、1971年1月24日、日本人アーティストとしては初の単独日本武道館公演となった「ザ・タイガース・ビューティフル・コンサート」をもってザ・タイガースは解散した。 1971年に 「タローとアルファベッツ」を結成するが、シングル2枚、活動期間約1年半で解散。 1973年には「森本タローとスーパースター」を結成。シングル3枚、アルバム1枚のリリースするが、約2年で解散する。1999年5月22日、森本太郎、海老沢雄一、辺見聖の3人で再結成。同年11月13日にサポート・メンバーに村田勝美、池田久枝を加えて活動し、後に彼らも正式メンバーとなる。同バンドはメンバーは逐次変更されているが、現在に至るまで活動を続けている。 「森本太郎とスーパースター」解散後は芸能プロダクションの芸映に入社。音楽プロデューサーとしても活躍し、西城秀樹、レイジー、河合奈保子、リフラフ(TRFのSAMが在籍)を手掛けたことが知られている。 1981年 - 1982年には、再結成したザ・タイガースにも参加、自身が作曲した「色つきの女でいてくれよ」(作詞は阿久悠)がヒットチャートの上位にランクインする。1988年には、加橋かつみと岸部シローの呼びかけで「タイガース・メモリアル・クラブ・バンド」を結成し、シングル3枚、マキシ・シングル1枚、アルバム2枚、シングル・カセット1枚をリリースした。1992年には、G.S.クラブ(アイ高野、岡本信、真木ひでと、三原綱木、森本太郎)名義でシングル「元気な背番号」を、1993年には、岩本恭生、加橋かつみ、岸部シローと共にでザ・タイガースマニアを結成。シングル「涙のロマンス」をリリースした。その他、1991年加橋かつみと共にMi-Keの1stアルバム「想い出のG.S.九十九里浜」で「落葉の物語」のコーラスで参加。他にアイ高野、真木ひでと、かまやつひろしなどもそれぞれの歌で参加した。 また1997年には沢田研二、岸部一徳と共にロックユニット「TEA FOR THREE」を結成(現在活動休止中)。 1998年ソロ活動を始め、11月18日の誕生日に初のソロ・ライヴを行い、岸部一徳もゲスト出演した。、現在は「森本太郎とスーパー・スター」を率いて月に一度のペースで公演を行っており、精力的に活動している。 毎年行われるバースデーライブには沢田研二や岸部一徳のほかに、藤山直美、ベンガルなど親交のある俳優も祝福にかけつけている。 ※「ザ・タイガース」については「沢田研二」の項も参照のこと。 2008年に甥がクラブ系男女ユニット・Ceiling Touchとしてメジャーデビューしている。 また2009年には沢田研二、岸部一徳とともに、ザ・タイガースのドラマーで現在は中国語テキストの著者・高校教師の瞳みのると38年振りの再会を果たした。 2011年9月8日から2012年1月24日にかけて、瞳みのる、岸部一徳とともに沢田研二のライブツアーにゲスト出演し、全国38か所でコンサートを行った。 2013年12月3日から12月27日にかけて、加橋かつみを加えたオリジナルメンバーによるザ・タイガース復活コンサートを全国で8公演行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森本太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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