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7代目森村 市左衛門(ななだいめもりむら いちざえもん)こと森村 開作(もりむら かいさく、明治6年(1873年)12月16日 - 昭和37年(1962年)7月5日〔朝日新聞 1962年7月5日東京夕刊 7面〕)は、大正から昭和期の日本の実業家。森村財閥を創設した6代目森村市左衛門の次男。 == 来歴 == 明治6年(1873年)12月16日に6代目森村市左衛門(以下6代目と略す)の次男として東京府に生まれた。この年は6代目が銀座にモリムラ・テーラー(後に森村組に再編)を開業した年である〔森村百年史 149ページ〕。明治25年(1892年)に慶應義塾を卒業した開作は、翌26年(1893年)にニューヨークのへ入学した〔。当時は森村財閥がすでにニューヨークに活動拠点(モリムラ・ブラザーズ、Morimura Bros., & Co.)を持ち、責任者は開作の叔父・森村豊(6代目の異母弟)であった。イーストマン・ビジネス・カレッジ卒業後の明治29年(1896年)にMorimura Bros.に入社した。 開作の生涯に大きな転機が訪れたのは明治32年(1899年)である。父が後継者としてきた長兄の明六が結核により27歳で夭逝し、財閥の礎石ともいうべき叔父も胃がんにより46歳で相次いでこの世を去った〔学園100年史 32ページ〕〔『日本の企業家と社会文化事業』33ページ 1987年6月発行、編著者:川添登/山岡義典、発行:東洋経済新報社。〕。後継者に指名された開作は帰国、明治35年(1902年)に取締役として匿名組合森村組に入った〔森村百年史 150ページ〕。明治42年(1909年)には、取締役総務部長兼リネン部長となっている〔森村百年史 83ページ〕。 大正6年(1917年)、森村産業の社長に就任。翌年には匿名組合森村組を株式会社・持株会社化し社長に就任、合名会社森村銀行の頭取にも就任している〔。これに先立ち、財閥の主要会社日本陶器から東洋陶器や日本碍子などを分社させている。 大正8年(1919年)9月11日、父の死去に伴い名実ともに森村財閥の経営を引き継ぎ、翌月男爵位を賜った(父から継承した実業他社については#役職を参照)。昭和3年(1928年)には市左右衛門(7代目)を襲名した〔森村百年史 132ページ〕。 大正13年(1924年)、合名会社森村銀行を株式会社化し、三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)傘下に入った。昭和金融恐慌に端を発した大蔵省の銀行合同政策により、昭和4年(1929年)に森村銀行は三菱銀行と合併し、開作は監査役となっている〔。昭和16年(1941年)に始まった太平洋戦争により日本陶器の陶磁器製品は、生産輸出が大幅な減少を余儀なくされていった〔森村百年史 139ページ〕。またニューヨークのMorimura Bros.は資産凍結の憂き目をみて、閉鎖に追い込まれた。開作は電話で同社取締役ニューヨーク支店長であった水野智彦に対し、英語で「I trust you!」と最大の讃辞と慰労の言葉を贈った〔森村百年史 143ページ〕。日本国内では、財閥の製造会社である日本陶器、東洋陶器、日本碍子、日本特殊陶業、共立原料などが軒並み軍需工場に指定され、過度の増産を余儀なくされていった。これに対し開作は男爵位を賭して抗したという〔森村百年史 148ページ〕。1945年、森村組社長を辞し相談役に退いた〔。 1947年1月、GHQによる公職追放令により開作は一切の公職を失った〔。公職追放の理由として、横浜正金銀行取締役であったこと、戦時中の日本医療団理事であったことが戦争協力者と見なされたためである〔。公職追放令は1950年10月に解除されたが、77歳となっていた開作は元職には復帰しなかった。 この後は、教育・研究や国際交流などに貢献した〔。開作のフィランソロピーについては#フィランソロピーを参照のこと。1962年(昭和37年)7月5日9時30分、自宅で老衰のため永眠した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森村開作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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