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森 民夫(もり たみお、1949年4月9日 - )は、日本の政治家、建設官僚。新潟県長岡市長(5期)、全国市長会会長(第28代)。 == 概要 == 新潟県長岡市生まれ。長岡市立四郎丸小学校、長岡市立南中学校、新潟県立長岡高等学校、東京大学工学部卒業。東大卒業後、民間の設計事務所を経て、1975年に建設省に入省した。建設省では東京ドーム建設計画に関わり、また兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では建築物危険度判定支援本部長を務めた。1995年からは2年間、中華人民共和国に住宅の建築技術の指導のために派遣されている。1997年に建設省を退官し、故郷の長岡市に戻った。 1999年11月、長岡市長選挙に無所属で出馬する。前市長の日浦晴三郎の任期途中での辞職に伴う市長選では、日浦の後継候補である大原久治も出馬したが、699票の僅差で森が大原を破り、初当選を果たした。なお出馬に際しては主な政党の支援は受けず、高校の同級生やボランティアによる草の根運動的な選挙戦を展開した。そのため長岡市議会は事実上のオール野党体制であり、森は当初は各会派に対し、等しく距離を置く姿勢を取っていた〔朝日新聞 2003年10月31日号 新潟版〕。 1期目は、日浦前市長時代のバブル景気に乗ったスペースネオトピア事業等の失敗により、悪化した長岡市の財政再建に奔走。2003年の長岡市長選挙では無投票で再選された。長岡市長が無投票で再選されるのは、戦後初の出来事であった。 2期目の途中、2004年6月に平山征夫新潟県知事が、10月の県知事選への不出馬を表明。このため森が保守陣営の有力候補の1人に目され、本人も知事選出馬に意欲を示していたが、新潟県内の首長や県議、財界人で構成された「新しい新潟県知事を考える有志の会」(座長・小川竹二豊栄市長)が特定候補の推薦を見送り、自由民主党や公明党は、民主党の渡辺秀央参議院議員が推した経産官僚の泉田裕彦の推薦を決定。なおかつ長岡市は市町村合併を間近に控えていたため、森は8月23日に知事選不出馬を表明し、その後2005年4月、2006年1月の2回にわたり、周辺9市町村が長岡市に合併した。 知事選直後の2004年10月23日、新潟県中越地震が発生。就任したばかりの泉田裕彦知事らが対応に追われる中、森が建設官僚時代、兵庫県南部地震の復興に関与した経験が役立つ結果になった。しかし、長岡市は財政的な余裕に乏しく、兵庫県南部地震に比べ国からの支援が少なかったため、市長2期目はほぼ、震災からの復興に追われて終わった〔森自身、2007年11月の市長選で「復旧に追われたことから、市民の望む政策の実現は夢の途中」(毎日新聞 2007年11月3日号 新潟版)として3選出馬への理解を訴えた。〕。 2006年12月、地元後援会「志民の会」を結成し、長岡市選出の保守系県議会議員や財界人が多数参加した。2007年11月、長岡市長選挙で日本共産党推薦の宍戸末雄をトリプルスコアで破り、3選を果たす。しかし、市民の間で反対の声が根強い長岡市役所の長岡駅前への移転に反対する宍戸も2万票を上回る票を獲得した。長岡市長選挙で、共産党単独推薦の候補が2万票以上の票を獲得したのは初めてであった。ただし、移設については市長選が行われる以前に、長岡市議会で可決されている。 2008年1月、元三重県知事の北川正恭が発起人代表を務める「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合(通称「せんたく」)」に参加し、発起人に名を連ねる。知事が多い発起人の中で唯一の市長であった。2008年3月、同会の設立総会で市町村長の世話人・幹事に就任した。 2009年、全国市長会会長(第28代)に就任。就任にあたり、挨拶で河井継之助や小林虎三郎ら、郷土の長岡が輩出した先人の取り組みを紹介しながら、地方分権の推進に全力を尽くしていく所信を述べた。 2011年11月に4選、2015年11月に5選〔長岡市長に森氏5選 人口減対策を推進 新潟 産経ニュース2015.11.10 〕を果たす。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森民夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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