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森田和郎 : ミニ英和和英辞書
森田和郎[もりた かずろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 

森田和郎 : ウィキペディア日本語版
森田和郎[もりた かずろう]

森田 和郎(もりた かずろう、1955年 - 2012年7月27日マイナビ将棋担当によるツイート (2013年6月1日)〕)は、コンピューターゲームプログラマ。代表作は『森田将棋』。
== 経歴 ==
1955年富山県富山市内科産婦人科開業医の家に生まれる。3人兄弟の長男〔野田正彰『コンピュータ新人類の研究』文春文庫、1994年、pp.162-168〕。元参議院議員森田高は弟〔北日本新聞、2013年6月3日、pp.28〕。
富山県立富山中部高等学校在学中にプログラム電卓でコンピュータと出会う。高校卒業後、1973年東京工業大学有機化学科へ入学。留年して2年で東京工業大学を中退。富山県で1年を過ごした後、埼玉医科大学に入学した〔〔「special interview 森田和郎 伝説の森田将棋 その強さの秘密とは」『蘇るPC-8801伝説永久保存版』アスキー書籍編集部編著、アスキー、2006年、pp.86-93〕。
1976年に発売された日本電気(NEC)のワンボードマイコンTK-80に大学2年で熱中し、オセロのプログラムを作成〔。
1981年武蔵野マイコンクラブに入会。月2回の例会の中で、MS-DOS情報やC言語の講師を行う。武蔵野マイコンクラブとして、「森田オセロ」を発表。自信作の「マリンアドベンチャー」は、投稿のための原稿を紛失し未発表に終わる〔武蔵野マイコンクラブ・町田健治「森田さんを偲んで 森田将棋と武蔵野マイコンクラブ」『I/O』2013年、8月号、p.117〕〔武蔵野マイコンクラブ10周年記念誌「私と武蔵野マイコンクラブ」の中の森田本人の寄稿文から〕。
PC-8001を購入して、1982年には『月刊アスキー』で定期開催されていた思考ゲーム対決大会「マイクロオセロリーグ」に第3回から出場。優勝して、アスキーからオセロゲームとしてコンパクトカセットでパッケージとして発売されて印税収入を得る。その後、PC-8801に機種を買い換える〔。当時は、『I/O』出身の芸夢狂人中村光一と並ぶスタープログラマーとして知られていた〔多摩豊『テレビゲームの神々 RPGを創った男たちの理想と夢』光栄、1994年、p.52〕。
1982年エニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストにエニックスから誘われて、1ヶ月で作成したウォー・ゲーム『森田のバトルフィールド』で応募。大賞にあたる賞金100万円の最優秀プログラム賞を受賞し、1983年2月には市販され、印税を約500万円得た〔。
この成功で1983年4月に埼玉医大に籍を置いたまま、株式会社ランダムハウスを設立し、代表取締役となる。この頃、エニックスの依頼で当時アーケードゲームで人気で自身も熱中した『ゼビウス』を目標にした『アルフォス』を半年で開発しており、同年6月にリリースした〔。
オセロに続いて将棋なども思考ルーチンを開発し、2年間かけて1985年8月に『森田和郎の将棋』を発売〔。初期のコンピュータ将棋の強豪(コンピュータ将棋選手権第1回~第6回の全てでベスト3入り、第2回では優勝)として知られる。ソースコードを示した詳細な解説書『思考ゲームプログラミング ― オセロゲームのアルゴリズムと作成法』(共著、 ISBN 4-87148-186-7 )を上梓するなど後進の教育もおこなった。瀧澤武信らは、アイデアをオープンにするという姿勢が後続のコンピュータ将棋開発者らに受け継がれたからこそ、プログラムが急速に進歩できたと述べている〔将棋世界2013年7月号 (「将棋」編集部ブログ) 〕〔 追想・ありし日~将棋ソフト開発のパイオニア 森田 和郎さん 打倒プロ棋士に情熱 北日本新聞 2013年8月5日〕〔 魚眼図・森田和郎氏を悼む~松原仁 北海道新聞 2013年7月16日夕刊〕。
1987年家庭用ゲーム機ファミリーコンピュータ向けの『ミネルバトンサーガ ラゴンの復活』のプログラムの大部分を担当、自身初のロールプレイングゲームでもあった。ファミコンでは他にも1992年の『ジャストブリード』を開発した〔。
1999年になってランダムハウスの事業は新たに設立された株式会社悠紀エンタープライズに譲渡された。森田も同社に移籍し、後に代表取締役も務めた〔悠紀エンタープライズ・会社概要 〕〔悠紀エンタープライズ・業績 〕。
2000年代に入ってからもドリームライブラリや『サムライスピリッツ零』などのプログラムを担当するほか〔、毎日コミュニケーションズ(現・マイナビ)のネット将棋事業にも関わっていた〔。
2012年7月27日に死去。晩年は体調悪化により歩行困難になっていたという。その死は2013年6月になって、『将棋世界』2013年7月号、『週刊将棋』2013年6月5日号で報じられ、明るみになった〔「森田将棋」で知られる森田和郎さん、死去 財経新聞 2013年6月3日 2013年6月3日閲覧〕〔ソフト「森田将棋」森田和郎さんの死去判明 読売新聞 2013年6月4日〕〔 追想・ありし日~将棋ソフト開発のパイオニア 森田 和郎さん 打倒プロ棋士に情熱 北日本新聞 2013年8月5日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「森田和郎」の詳細全文を読む




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