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森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7月21日)〔誕生日は『日本大百科全書』では文久元年7月21日(1861年8月26日)である。一方、『朝日日本歴史人物事典』では文久元年7月20日(1861年8月25日)とされている。〕 - 1897年(明治30年)11月14日)は、日本のジャーナリスト・翻訳家・漢文学者。本名は文蔵。別号に埜客(やきゃく)、羊角山人(ようかくさんじん)、白蓮庵主人(びゃくれんあんしゅじん)、紅芍園主人(こうしゃくえんしゅじん)など。 == 略歴 == 1861年(文久元年)、備中国小田郡笠岡(現・岡山県笠岡市西本町)に生まれる。1874年(明治7年)、大阪慶應義塾に入塾し、1875年(明治8年)に徳島慶應義塾に移動し、1876年(明治9年)に三田の慶應義塾本校で英文学を学ぶ。1879年(明治12年)には岡山の興譲館で坂田警軒について漢学を修めた。1882年(明治15年)に上京して、矢野龍渓の経営する『郵便報知新聞』に入社し、漢文の頭評と後序を担当する。1885年(明治18年)、清国へ特派され、「訪事日録」「北京紀行」などの紀行文を『報知新聞』に掲載。のち編集長となり敏腕を振い、徳富蘇峰の『国民之友』に、ビクトル・ユゴーを紹介する作品を発表する。 『報知新聞』分裂の際に退社し、1891年(明治24年)に『国会新聞』に入社して1895年(明治28年)の廃刊まで社員となる。この間、同紙のほかに『太陽』や『少年世界』等にも執筆。続いて『萬朝報』に高待遇で迎えられ、黒岩涙香とともに、明治期に「翻訳王」の異名をとるほどに活躍した〔倉敷ぶんか倶楽部(2011)〕〔谷口(2000)〕。森田は多くの翻訳書において、従来の乱訳語調を一新し「周密文体」という独自のスタイルを生み、我が国近代文学史上に大きな足跡を残している。 1897年(明治30年)、腸チフスのため死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)28頁〕。 門下に原抱一庵などがいる。また、1907年(明治40年)に『思軒全集』が刊行される。解説を森鴎外、徳富蘇峰、幸田露伴らが著している。 笠岡市では森田の業績を記念して「森田思軒顕彰会」が作られ、1968年(昭和43年)に生誕百年を記念して、同市に「思軒森田文蔵生誕之地碑」が建立された。笠岡市立図書館には「森田思軒顕彰コーナー」がある〔国会図書館レファレンス〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森田思軒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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