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森狙仙(もり そせん、1747年(寛延元年) - 1821年8月18日(文政4年7月21日))は日本の江戸時代後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、字は叔牙。号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。 狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。 == 生涯 == 森狙仙の生涯については残された資料が少なく、かなりの部分が不明である。 1747年(寛延元年)、絵師の森如閑斎〔橘如閑斎とする資料もあるが『日本美術シソーラス絵画編』に従う。〕という絵師の子として生まれる。出生地については大阪説、西宮説、長崎説がある。いずれの説をとるにせよ、大阪を中心に活動した。はじめ、勝部如春斎について狩野派の技術を学び、如寒斎と号した。天明4年(1784年)師の如春斎が没するあたりから、沈南蘋や円山応挙の影響を受けて画風を変え、写実を重視するようになり、猿画の名手として評判が高くなったと考えられる。天明8年(1788年)成立と推定される大田南畝『巴人集拾遺』に、「徂(原文ママ)仙猿画」という狂詩が載っている。 還暦を迎えた文化4年(1807年)にそれまで「祖仙」としていた号を「狙仙」と改める。1802年に刊行された莚破居士著『浪華なまり』に紹介される〔『日本美術シソーラス絵画編 』〕、文化11年1814年(申年)には柿本神社に絵馬を奉納する。 猿画に習熟するにあたって、猟師に生け捕りしてきてもらった猿を観察して猿画を書いたが、それでは自然そのままの猿を知ることができないと知人に指摘されたため、山野で猿を観察することに数年を費やしたという伝説がある〔『真美大観』〕。 兄である森周峯の子であり円山応挙の高弟でもあった森徹山を養子に迎えた。徹山の後に森一鳳、森寛斎が続き、森派と称される。弟子に森春渓、中殿暁園など。 1821年(文政4年)、大阪で没した。墓所は易往山西福寺(大阪市北区)にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森狙仙」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mori Sosen 」があります。 スポンサード リンク
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