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森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日)は、日本の俳優、歌手、コメディアン〔2009年11月11日『サンケイスポーツ』21面〕、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。別表記に森繁久弥 昭和・平成の芸能界を代表する国民的名優であり〔国民的俳優の森繁久弥さん96歳老衰で逝く (2009年11月11日)〕〔新撰 芸能人物事典 明治~平成「森繁久彌」の項 〕、映画・テレビ・舞台・ラジオ・歌手・エッセイストなど幅広い分野で活躍した。早稲田大学を中退後、NHKアナウンサーとなって満州国へ赴任。帰国後、舞台やラジオ番組の出演で次第に喜劇俳優として注目され、映画『三等重役』『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で人気を博した。人よりワンテンポ早い軽快な演技に特色があり、自然な演技の中で喜劇性を光らせることができるユニークな存在として、後進の俳優たちにも大きな影響を与えた〔。また、『夫婦善哉』『警察日記』等の作品での演技が高く評価され、シリアスな役柄もこなした。映画出演総数は約250本を超える。舞台ではミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』で主演し、上演回数900回・観客動員約165万人の記録を打ちたてた〔日本大百科全書「森繁久弥」の項 〕。『知床旅情』の作詞・作曲者でもあり、歌手として紅白歌合戦に7年連続で出場している。語りのうまさには「森繁節」と言われるほど定評があり〔、ラジオ番組『日曜名作座』への出演のほか、朗読作も多い。先に亡くなっていく俳優たちへの弔辞を読む姿でも知られる〔。慈善活動にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書に自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。 1991年(平成3年)に大衆芸能分野で初の文化勲章を受章。ほかの栄典・称号に紫綬褒章、文化功労者、名誉都民、国民栄誉賞、従三位など。 == 来歴 == === 生い立ち === 1913年(大正2年)5月4日、大阪府枚方市上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府の大目付・森泰次郎で、彼の実弟は儒学者の成島柳北である〔。父の達吉は旧制第二高校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家〔〔20世紀日本人名事典「菅沼達吉」の項 〕 で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていたことに由来する。 2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる〔〔倉本聰著『森繁久彌86才芸談義』p.160〕。兵庫県西宮市鳴尾に移り住み〔〔森繁久彌著『隙間からスキマへ』p.225-226〕、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親が北野中学校へ入学させるために堂島小学校へ転校させられる〔森繁久彌語り・久世光彦文『大遺言書』〕。 旧制北野中学から早稲田第一高等学院に進み、1934年(昭和10年)に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫や谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった〔。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森繁久彌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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