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森 茂喜(もり しげき、1910年3月27日 - 1989年11月19日)は、日本の政治家、元軍人(陸軍中佐)。元根上村長の森喜平は父。第85・86代内閣総理大臣の森喜朗は長男。 == 来歴・人物 == 石川県能美郡根上村出身。旧制小松中学、早稲田大学専門部法律科で学ぶ。大学時代はラグビー部の中心選手として活躍した。大学卒業後、京都市役所で勤務。その後石川県庁に移る。 日中戦争勃発により陸軍に召集され従軍。少尉時代に上海上陸から南京攻略戦〔「敗残兵いじめ」『おつぶけ町長森茂喜その人と足跡』P205 なお、少尉であった森が敗残兵虐めを行った内容ではなく、反対に相次ぐ友軍の戦死で士気が低下し、報復感情が高まっていることに暗澹たる感想を抱いた内容であることを補足しておく。〕、その後徐州作戦、武漢作戦と初期の激戦を一通り経験し、伝記にも載っている。週刊誌に取り上げられたこともある〔「森元首相の実父「森茂喜少尉」も参加していた「南京事件」70年」『週刊新潮』 (通号 2622) 2007年11月29日〕。 満州の牡丹江に駐留していた歩兵第7連隊第9中隊長時代、部下に丁来赫(チョン・ネヒョク)が居た。丁は後年韓国国防部長官としてよど号ハイジャック事件の解決に奔走した。戦後も茂喜とは会食を重ねており、息子の喜朗とも交流し、茂喜の墓参りも行っている〔「「よど号」事件当時の韓国国防部長官・丁氏、根上の森茂喜氏の墓参り=石川」『読売新聞』2003年2月18日東京版〕。 太平洋戦争後半の1944年、大陸から南洋諸島に転じトラック島空襲後、トラック島に上陸した。同島では花島、その後水曜島に駐留。英米捕虜の管理を任されていたらしく、娯楽の無い大海の孤島にあってラグビーボールを自作し、部下や捕虜と楽しんだ。この伝聞を息子の喜朗は『森の清談』で早坂茂三に語っている。その後、同地で終戦を迎える。最終階級は中佐。 復員後1947年に根上町議会議員選挙に出馬し初当選。6年後の1953年に根上町長に就任(無投票当選)。森は町民からの圧倒的な支持を受け、1985年まで9期連続無投票で当選した(自治体首長としての最多記録)。全国町村会副会長、宮竹用水理事長などの要職も歴任した。 人徳者として知られ、常に正座して町民と対話したことから、「おぶつけ町長」と呼ばれた。座右の銘は「滅私奉公」〔『森喜朗 自民党と政権交代』によれば、息子の喜朗も座右の銘としているようである。〕。仕事のかたわら、第四高等学校(現在の金沢大学)でラグビーを指導。石川県ラグビー協会会長などを歴任した。大西鐡之祐はラグビー部の後輩で、早大ラグビー部の合宿を根上で世話するなどの活動も行った。息子の喜朗が早大に入学した際胃カタルで退部するまでの4ヶ月を過ごし、退部に伴い退学を申し出た喜朗を大西と共に励ましている〔特別企画 ラグビー部応援企画①~森喜朗氏~ 第392号 ラグビー早明戦号『明大スポーツ新聞』 『森喜朗 自民党と政権交代』朝日新聞社 2007年 『明大スポーツ』では退部時の大西の言葉、『自民党と政権交代』では退部後早稲田大学雄弁会に入るまでの経緯が語られている。〕。 1989年4月1日、体調不良を理由に町長を辞任。退職金をすべて町に寄付し、話題を集めた。辞任後、根上町名誉町民となった。同年11月19日、肺炎のため根上町総合病院で死去。享年79。葬儀の喪主は長男・喜朗が務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森茂喜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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