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森 雅守(もり まさもり、1858年4月4日(安政5年2月21日) - 1894年(明治27年)5月20日)は、日本の陸軍軍人。上原勇作、楠瀬幸彦と三羽烏と謳われた秀才であったが、イタリアで自殺した。最終階級は陸軍砲兵少佐。 ==生涯== 会津藩藩士森裕衛の長男として、若松に生まれた。旧名は寅之助〔『ある明治人の記録』77頁〕。幼少時代から勉学に優れ、斗南時代には知藩事(松平容大)の嘉賞を受ける〔『明治過去帳』「森雅守」〕。柴五郎とともに青森県県庁の給仕となり、両人は上京の機を窺っていた〔『ある明治人の記録』82頁〕。志を達した森は幼年学校生徒に合格した〔*>柴に一年遅れたが、二人は同期生となり、また兵科も同じであった。〕。森は陸士旧3期で、1879年(明治12年)に砲兵少尉に任官している。士官学校の卒業はその翌年で、楠瀬幸彦、上原勇作が砲兵科、工兵科の首席であった〔秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』595頁〕が、森も優等卒業者で、三羽烏と称された〔『海を越えた日本人名事典』「森雅守」〕。1881年(明治14年)には楠瀬、上原と共にフランス留学を命じられ、森はフランス陸軍砲兵連隊で戦術を学んだ。 4年後に帰国し、抜擢によって砲兵射的学校教官兼教導中隊長に就任。1890年(明治23年)に少佐へ進級し砲兵第五連隊大隊長、東京砲兵工廠検査官を歴任した。1892年(明治25年)には別役成義の次女幸重と結婚。その翌年にイタリアへ留学し、観測器の研究に従事するが旅先のエルバ島のホテルで自決した。森は軍服の正装姿であったが、原因は発狂とされる。 森には三人の弟がおり、次弟の雅治は島田泰夫(内務省大書記官)の養子となり司法省法学校時代に病没。三弟の左武は歩兵少佐として日露戦争で戦死。末弟の梧六は日露戦争、青島攻略戦を戦った砲兵大佐で、予備役後は第二高等学校図書主任を務めた〔『会津会雑誌第39号』小松八四郎「森梧六君」〕。梧六の後妻は古谷清陸軍中将の妹である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森雅守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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