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森 靜子(-静子、もり しずこ、明治42年(1909年)12月25日 - 平成16年(2004年)1月31日〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.78-81。〕)は、日本の女優、元子役である。出生名は木村 靜子(きむら-)、結婚後の本名は吉川 靜栄(よしかわ しずえ、-靜子とも〔)である〔『テレビ・タレント人名事典 第6版』、日外アソシエーツ、2004年、「森静子」の項。〕。 == 来歴 == 1909年(明治42年)12月25日、東京府東京市浅草区〔『講談倶楽部』昭和11年新年号付録、講談社、1936年、「森静子」の項。〕(現在の東京都台東区浅草)に新派の女形俳優を父に〔、「木村靜子」として生まれる。 1915年(大正4年)、父の導きで、数えの6歳で新派の初舞台を踏み、子役として舞台に立った〔。1917年(大正6年)、浅草区松葉尋常小学校(現在の台東区立松葉小学校)に入学〔『日本映画俳優名鑑』、映画世界社、1934年、「森静子」の項。〕、浅草に近い日活向島撮影所で、渡辺霞亭監督の『春の海』に出演している〔。1922年(大正11年)、大阪郊外の小阪町小阪(現在の東大阪市小阪)に移住した〔〔。 1923年(大正12年)、マキノ・プロダクションの前々身、牧野教育映画製作所が製作した金森万象監督の短篇映画『貧者の一燈』に本名の「木村靜子」名義で主演する〔。同社は同年、マキノ映画製作所に改組され、静子は同社の専属俳優となった〔。同年、長尾史録監督の『村長の息子』、牧野省三監督の『加賀の若殿』に出演、同監督の『恋地獄』で五味国雄、衣笠貞之助監督の『魔の池』で島田嘉七の相手役を演じた。『加賀の若殿』では当時脇役の阪東妻三郎との初仕事であった。金森監督の『咽び泣く魂』、『悩める子羊』、『祇園情話 蕾のまゝ』に主演、「清純派女優」として注目された〔。 1924年(大正13年)9月、発足した帝国キネマの立石駒吉が、マキノから役者を引き抜きにかかり、やくざを使って森を強引に引き抜く。11月、岡田時彦と共演した阪田重則監督の『陰より陽へ』を最後にマキノを去り、帝国キネマ演芸に移籍、同月、古海卓二監督の『髑髏の印籠』に出演している。 1925年(大正14年)の帝国キネマ分裂の際には東邦映画製作所に選別され、同社設立第1作、伊藤大輔監督の『煙』に出演、岡田時彦と共演した。同社は2か月で解体され、静子は阪東妻三郎が独立して設立した阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)に入社した〔。阪妻プロの設立第1作、井上金太郎監督の『異人娘と武士』、第2作で二川文太郎監督の『雄呂血』、第3作で志波西果監督の『魔保露詩』、と次々にフル出演を開始した。同社で製作した阪妻主演作にはほとんど出演した〔。 1930年(昭和5年)6月、阪東妻三郎の撮影所は松竹キネマに明け渡され松竹太秦撮影所と改称する。それとともに、犬塚稔監督の『からす組』前篇・後篇を最後に、静子は松竹キネマに移籍した。松竹移籍第1作は、同じく移籍した犬塚監督の『辰巳の小万』で静子の主演作であった。月形龍之介主演、井上金太郎監督の『南国太平記』前篇・後篇を最後に、帝国キネマ演芸太秦撮影所に移籍した。移籍第1作は曾根純三監督の『堀江六人斬 妻吉物語』であった。同社は同年、新興キネマに改組された。新興キネマでは、現代劇にも出演した〔。 1937年(昭和12年)、俳優の浅香新八郎と結婚〔、本名は「金谷静子」となるが芸名はそのままで活動した。1940年(昭和15年)、牛原虚彦監督の『晴小袖』に出演したのを最後に、夫とともに同社を退社、独立して、実演の劇団「新生国民座」を設立した〔。1944年(昭和19年)、夫の浅香と死別、引退した〔。第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)、のちにタカラベルモントの代表取締役会長となる吉川秀信と結婚した〔。 2004年(平成16年)1月31日、老衰のため死去した〔。満94歳没。現在のタカラベルモント代表取締役会長兼社長の吉川秀隆〔タカラベルモントの企業概要 、タカラベルモント、2009年3月末データ、同年11月6日閲覧。〕は孫に当たる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森静子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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