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棲雲寺(せいうんじ・栖雲寺)は、山梨県甲州市大和町木賊にある寺院。臨済宗建長寺派寺院で、山号は天目山、本尊は釈迦如来。創建時には護国禅寺と称した。 == 概要 == 天目山山中の標高約1,050mの日川渓谷の上流左岸にある。日川渓谷のさらに4.6kmほど下流の田野には、曹洞宗寺院の天童山景徳院がある。 南北朝時代の貞和4年/正平3年(1348年)、業海本浄が当時木賊山と呼ばれていたこの山を訪れた。彼は文保2年(1318年)に仲間5人と元に渡り、天目山において中峰明本(普応国師)から直に教えを受け、印可を授かって嘉暦元年(1326年)に帰国した。その後、師の教えを実践させるのに相応しい場所を求めて20年以上にわたって諸国を旅して自分の修業の場に相応しい地を求めていたが、木賊山が天目山を髣髴とさせる景勝地であるとしてこの地に天目山護国禅寺を創建した。 業海は当時一世を風靡した夢窓疎石の一派を強く批判して岩窟に普応国師像を安置して樹下で座禅を組み、地元の住民とはほとんど交わらずに牛に使いさせた(『本朝高僧伝』)という伝説を残している。業海は4年後に没するが、その後は甲斐守護・武田氏の庇護を受けて栄え、木賊山もいつしか「天目山」と呼ばれるようになり、兵庫県丹波市にある瑞巌山高源寺(開基の遠谿祖雄(遠渓祖雄)は業海本浄とともに元に渡った1人)とともに「東天目」「西天目」と併称された。応永24年(1417年)、上杉禅秀の乱に加担したとして室町幕府の討伐を受けた甲斐守護武田信満がこの山中で自害した。信満の遺骸はこの寺に運ばれて葬られたとされ、棲雲寺には信満の宝篋印塔やともに自害した家臣達の五輪塔が存在している。武田信玄も軍旗・軍配・陣中鏡を同寺に奉納したと伝えられている。 戦国時代末期に武田氏を滅ぼした徳川家康も天正11年4月30日(1583年6月20日)の日付でこの寺に約3貫文の寺領保障と3ヶ条の禁制を発している。また、寛永20年(1643年)には家康の孫で江戸幕府3代将軍徳川家光からの寺領安堵の朱印状が発給されている。正徳6年(1716年)の検地帳による朱印地は約20石であったとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「棲雲寺」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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