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椋原 健太(むくはら けんた、1989年7月6日 - )は、東京都大田区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・セレッソ大阪所属。ポジションはディフェンダー。 ==来歴== 5歳からサッカーを始める。小学校卒業まで横浜バディSCでプレーし、6年生時にFC東京U-15セレクションに参加。長島裕明から「6年生にしては、やけに守備がしっかりしている。足の運び、姿勢、バランスが良く、人間性も決め手になった」と評価され、中学入学と同時に同クラブに入団。なお、横浜FMと東京Vのジュニアユースのセレクションも受け合格していたが、「一番スムーズに入れて伸び伸び出来そうだと感じた」〔2007年ユース選手紹介インタビュー 東京中日スポーツ〕 ことから、FC東京を選択した。高校へ進むとFC東京U-18に昇格。同期の大竹洋平、廣永遼太郎、田端信成、岡田翔平、田中奏一、宮阪政樹、井澤惇、加藤淳也らと共に〔Jユースサハラカップ2007:出場チーム紹介 (FC東京U-18) J's GOAL〕2007年のJユースサハラカップで優勝。同大会ではキャプテンとしてチームを牽引した。当時はフィードを磨かせるためにセンターバック(CB)に配されて最終ラインを統率したこともあり、左右両サイドバック(SB)、CBと守備的な位置はどこでもこなした。 2008年、大竹・廣永と共にトップチームに昇格〔椋原健太選手(FC東京U-18)来季新加入内定のお知らせ FC東京 (2007年9月13日)〕。同年5月25日のナビスコカップの東京ダービーにて「一番好きなポジション」と語る右SBのスタメンに抜擢され公式戦初出場。FWフッキのマークを任され、城福浩監督から「チームの中でも高い」と評された守備力〔新人・椋原初ベンチ 東京中日スポーツ 2008.05.10〕 を発揮し、完封勝利に貢献するデビューを飾った。J1第16節鹿島戦でJ1リーグ戦デビューも果たす。 2009年のナビスコカップ決勝では右SBでフル出場し、2-0の完封勝利に貢献。プロ入り後初のタイトル獲得をピッチ上で味わった。リーグ戦での出場機会も徐々に増え、リード時にはスピードのある相手交代選手への対応〔【J1:第26節 FC東京vsG大阪】城福浩監督記者会見コメント J's GOAL、2009.09.19〕、ビハインド時にはDFの長友佑都らを前線に上げる際の穴埋め〔城福東京 超攻撃的布陣を用意 東京中日スポーツ、2009.08.19〕 といったように攻防両面でのオプションとしての起用が目立った。 2010年はSBのポジションを争う徳永悠平が負傷者が多く層の薄いボランチにコンバートされ、長友佑都がワールドカップ後に期限付き移籍したこともあって、出場機会を大幅に増やし、開幕戦を視察したトーマス・クロートに高評価されるなど〔完封に貢献 長友に大物代理人が熱視線 スポーツニッポン、2010.03.07〕 頭角を現す一年となった。守備に自信をもつ一方で、攻撃面でのバリエーションを課題に挙げており〔Tokyo Mania 第35回 椋原健太選手インタビュー 182Channel、2009.08.13〕、チームが攻撃に比重を傾ける際には、SBからCBにポジションをスライドさせられることもあった。J1第20節広島戦ではプロ入り後初のCBでの先発出場となり〔椋原 プロ初CB 佐藤封じだ! 東京中日スポーツ (2010年8月21日)〕、FW佐藤寿人のマークを任された〔寿人キラーに指名! 21歳椋原CBで先発へ スポーツニッポン、2010.08.21〕(0-2で敗戦)。 2011年は徳永の右SB復帰によりポジションを失うが、中村北斗の累積警告による出場停止を受け〔選手出場記録 FC東京 2011Jリーグ ディビジョン2 Jリーグ公式サイト〕〔FC東京・椋原が初の左SBでプロ初ゴール「みんな褒めてくれなかった」 ゲキサカ、2011.09.11〕、J2第27節京都戦でプロ入り後初となる左SBでの先発出場。思い切りの良いプレーで初得点を挙げると、中村らとのポジション争いを〔左SB争い激化 椋原VS中村VS阿部の三つどもえ 東京中日スポーツ、2011.9.14〕 制し、終盤戦にかけて左SBのレギュラーに定着した。この年、左SHに入っていたMF田邉草民は、椋原について「対面する相手が低い位置に下がっても、きちんとボールにアプローチする」のでSHの守備負担を軽減させてくれると述べている。2012年、J1第20節浦和戦でJ1初得点を挙げた。また、同年には日本プロサッカー選手会の支部長を務めている〔2012年度 各クラブ選手会 役員 日本プロサッカー選手会〕。 2013年、セレッソ大阪に期限付き移籍〔椋原健太選手セレッソ大阪へ期限付き移籍のお知らせ FC東京 (2013年1月10日)〕〔FC東京 椋原健太選手期限付き移籍加入のお知らせ セレッソ大阪 (2013年1月10日)〕。課題のクロスを磨きつつ、上下動や守備でアピールを続けたが〔椋原健太、プチインタビュー「チャンスが来たときに貢献したい」 blogola (2013年8月22日)〕、怪我も重なり〔FC東京DF椋原 昨季の悔しさバネ、サイドバック争い割って入る スポーツニッポン (2014年2月25日)〕 出場機会は限られた。 2014年にFC東京へ復帰〔椋原健太選手 FC東京へ復帰のお知らせ セレッソ大阪 (2014年1月11日)〕〔椋原健太選手 FC東京復帰のお知らせ FC東京 (2014年1月11日)〕。左サイド専任となり太田宏介の控えとしてチャンスをうかがったが、出場機会を得たカップ戦で失点に絡むなど〔電光石火の勝ち越し点、F東京下した清水が天皇杯8強入り ゲキサカ (2014年9月7日)〕、結果を残せなかった。 2015年にセレッソ大阪へ完全移籍〔椋原健太選手 セレッソ大阪へ完全移籍のお知らせ FC東京 (2015年1月7日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「椋原健太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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