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椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治2年8月5日) - 1950年(昭和25年)1月16日)は、真言宗泉涌寺の第149世長老(真言宗泉涌寺派管長)。徳島県阿南市椿泊町(旧徳島県那賀郡椿村)出身。 == 生涯 == 樫野吉六(天保3年6月6日 - 1909年(明治42年)8月27日)とミナ夫妻の間に誕生(龍海は二男三女の次男)。父は徳島藩中老で阿波水軍を率いた森甚五兵衛の家臣(家禄の石高は五石七斗)であった。 1879年(明治12年)徳島県那賀郡椿村(現在の阿南市椿泊町)の福蔵寺で得度する。高野山大学で学び、藤村密翁和尚に師事。ついで東京に出て哲学館(現在の東洋大学)に入った。この間、縁あって泉涌寺事務長釈玄猷師の弟子となる。 日清戦争の際、高野山より軍隊布教師に任命されて中国大陸に渡り、また北白川宮能久親王統率の近衛師団の従軍僧として台湾へ渡り、基隆で弘法寺を開く。釈玄猷師の遷化により、1898年(明治31年)に帰山し、執事に任ぜられるとともに新善光寺住職となる。その後、寺務長、泉涌寺派宗務長、真言宗法務部長などを歴任し、宗風発展に貢献した。 ついで1926年(大正15年)1月15日、第149世の大本山泉涌寺長老・泉涌寺派管長に就任した。寺門興隆に尽力し非常に大きな功績があった。また龍暁長老に師事し、事教二相に通暁し、1928年(昭和3年)には御修法長者を勤仕した。 また華道月輪未生流を創流した。 1950年(昭和25年)1月16日に静養していた自坊である新善光寺にて遷化。同年2月19日に緊急臨時総代会(小林海印・井上教尊・向井俊恭・小松道圓・上村龍宝の五師)が開かれ後任管長候補者を決めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「椋本龍海」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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