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植木等 : ミニ英和和英辞書
植木等[うえき ひとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

植木 : [うえき]
 【名詞】 1. garden shrubs 2. trees 3. potted plant 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 
: [など]
  1. (suf) and others 2. et alia 3. etc. (ら)

植木等 : ウィキペディア日本語版
植木等[うえき ひとし]

植木 等うえき ひとし1926年12月25日戸籍上は1927年2月25日〉 - 2007年3月27日)は、日本俳優コメディアン歌手ギタリストタレントである。
高度経済成長時代を象徴するコメディアンとして1960年代に一世を風靡し、数々のヒットギャグ、ヒット曲を放った。仲間内での愛称はボンさん植木屋植木やん
長男作曲家比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎。御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる〔戸井十月『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』p.19〕。
== 経歴 ==

* 愛知県名古屋市に生まれる〔『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』 戸井十月 小学館〕。父・植木徹誠は、真宗大谷派名古屋別院にて僧侶の修行中だった。本人が『徹子の部屋』で語ったところによると、植木は大正天皇崩御した日(1926年)に生まれたが(時間は定かではない)、ちょうど父が体調を崩していたので、叔父・保之助が役所への届けをまかされた。しかし、叔父が届けを忘れ、翌年ようやく出生届が出されたため、戸籍上は「昭和2年」(1927年)生まれとなったという。なお、届けが遅れたため、幾ばくかの罰金を徴収されたという。植木本人は「三世代に亘ってしまいました」と笑い飛ばしていた。本来は「大正15年12月25日」または「昭和元年12月25日」生まれである〔植木と同じ日に生まれた野球解説者の関根潤三も出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日は1927年3月15日となっている。〕。
* 3歳の頃、父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となり移住。移住先は、母親であるいさほ(旧姓:小幡)の実家、真宗大谷派西光寺がある三重県度会郡小俣町(現在の伊勢市の一部)の近く。なお、公式ホームページでは出身地を三重県としている。また一部の文献では出身地を小俣町や伊勢市としているものもある。
* 1939年 - 僧侶としての修行をするべく、東京・駒込の真浄寺へ小僧になるため上京。
* 1944年 - 旧制京北中学校卒業後、東洋大学専門部国漢科に入学。在学中からバンドボーイアルバイトを始める。
* 1946年 - テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。
* 1947年 - 3月に東洋大学専門部国漢科卒業後、東洋大学文学部(旧制)入学。同年秋にはNHKラジオ『お昼の軽音楽』で『ビロードの月』を歌うが、正規に音楽を勉強していないことに加え、進駐軍の影響から巷ではジャズをはじめとするダンス・ミュージックが流行し始めたことから「歌だけでなく、何か楽器を弾けたほうが収入になる」とのアドバイスを受け、「刀根勝美楽団(刀根勝美とブルームードセクション)」のバンドボーイの傍ら、友人から8000円のギターを月賦で譲り受け、教則本を頼りに練習を開始。この時代に知り合ったのが植木よりも3歳年下の若いドラマー、野々山定夫(のちのハナ肇)だった〔ハイビジョン特集『スーダラ伝説 植木等 夢を食べ続けた男』(2005年11月1日NHK-BS)での植木自身の証言。〕。
* 1950年 - 東洋大学文学部国漢科(旧制)卒業〔東洋大学の公式サイトや校友会誌などでは「昭和22年3月専門部国漢科卒」という肩書きになっていることから中退という説もある。〕。ほどなくして結婚。「萩原哲晶とデューク・オクテット」にギタリストとして加入。「楽譜が読める」という強みはあったが、ギターの腕前は素人の域を越えることはなかった。デューク・オクテットのドラマーは野々山で、再び顔を合わせることとなった。
* 1952年 - 自身のトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。
: 植木のバンドが演奏していると、進駐軍として日本に滞在していたハンプトン・ホーズがピアニストとして飛び入りで演奏に参加してきたという逸話が残っている。
* 1954年 - オペラ歌手平山美智子からクラシックの発声レッスンを受けていた折、ギタリストを探していたフランキー堺に誘われ、「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。ここでギタリストとしてではなく、「でたらめスキャット」など、コメディー・リリーフとしての才能を開花させる。当初、「日劇での1ステージだけ」という約束がそのまま残留を請われ、この時点で「ニュー・サウンズ」は解散となる。
* 1957年3月1日 - 1955年フランキーが俳優に転身し日活に引き抜かれたことで、既に1956年2月、シティ・スリッカーズから移籍していた谷啓らのいるキューバン・キャッツに移籍。その主要メンバーの一人として活躍し、ジャズ喫茶などで人気を博す(のちにバンド名を「ハナ肇とクレージーキャッツ」に改称)。既に知己だったリーダーの野々山定夫(ハナ)は当初からシティ・スリッカーズのような「コメディー路線」を志向していた。
* 1959年 - クレージーキャッツの一員として、フジテレビのTV番組『おとなの漫画』に出演。
* 1961年 - クレージーキャッツの一員として、日本テレビの番組『シャボン玉ホリデー』に出演。「……お呼びでない ?…こりゃまた失礼いたしました !!!」など歴史に残るギャグで爆発的な人気を得る。
* 1962年 - 古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』に出演し、大ヒット。以降、「無責任男」をキャッチフレーズに数多くの映画に出演。『スーダラ節』『ドント節』をはじめ数々のコミックソングをヒットさせた。
* 1984年 - 石井聰亙監督の過激なコメディ映画『逆噴射家族』に出演し、健在ぶりをアピールする。
* 1986年 - 『新・喜びも悲しみも幾歳月』で、キネマ旬報助演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、毎日コンクール助演男優賞を受賞。
* 1986年 - 主演ドラマ『名古屋嫁入り物語』放送。1998年まで計10作作られる人気シリーズとなった。
* 1990年 - 自身の企画で、ヒット曲をメドレーにして歌った『スーダラ伝説』を発売。話題を呼び、この年の第41回NHK紅白歌合戦に1967年以来2度目の出場を果たし、歌手別最高視聴率56.6%を叩き出す。さらにオリコントップ10入りも果たすという大記録を打ち立てた。その余波で高額納税者番付・芸能人部門でもトップ10入りを果たし、さらに記録を作った。不動産売却以外では還暦を過ぎてのランクインは他に例が無い。
* 1993年11月3日 - 紫綬褒章受章。
* 1997年 - 連続テレビ小説甘辛しゃん』に出演中の頃から肺気腫を患う。2003年頃から容態は悪化し出し、体力低下のため舞台公演が出来なくなる。
* 1999年4月29日 - 勲四等旭日小綬章受章。
* 2006年12月21日 - 朋友である青島幸男の通夜に、酸素吸入器をつけて参列。これが公の場への最後の出席となる。
* 2007年3月27日 - 午前10時41分、肺気腫による呼吸不全のため都内の病院で死去。。法名は「宝楽院釋等照」。
* 2012年、1979年に公開された主演映画『本日ただいま誕生』の紛失していたフィルムが渡辺プロダクションの倉庫で発見。2014年、「幻の主演作」が、第27回東京国際映画祭で特別上映された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「植木等」の詳細全文を読む




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