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片岡 千恵蔵(かたおか ちえぞう、旧字体:千惠藏、1903年3月30日 - 1983年3月31日)は、日本の俳優。本名は植木 正義(うえき まさよし)。 戦前・戦後の長期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の時代劇スターである阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた〔『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)〕(これに月形龍之介を含めて「七剣聖」と呼ぶ場合もある)。出演作品は300本を超える。戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで第一線のスターで在り続けた。終戦直後のGHQ占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得た。当たり役に『いれずみ判官』の遠山金四郎など。 長男の植木基晴(「千恵蔵二世」と呼ばれた)、娘の植木千恵は子役で、東映時代の千恵蔵と共演したが、その後引退。三男の植木義晴は日本航空の元操縦士で、同社の専務執行役員を経て、代表取締役社長に就任した〔日本航空、社長に植木義晴氏-上期路線計画、787でSIN線も トラベルビジョン 2012年1月17日閲覧〕。四男国晴ともに一般人。 ==来歴== ===歌舞伎界へ=== 1903年(明治36年)3月30日、群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市)に生まれる。幼い頃に母親を亡くし、東京市の水道局に勤務していた父の住む麻布区箪笥町に移り住む〔『日本映画俳優全集・男優篇』p.144-147〕。やがて麻布小学校に入学するが、芝居好きの父親の影響で芝居に熱中していた。 1912年(明治45年)、9歳で十一代目片岡仁左衛門主宰の片岡少年劇に入門。片岡十八郎を芸名に、真砂座の『忠臣蔵』で初舞台を踏む〔。やがて仕出しから座頭に進み、『菅原伝授手習鑑 車曳き』の松王丸を師匠譲りの当たり芸とした。少年劇解散後は仁左衛門の直門となって片岡千栄蔵を名乗り〔、1923年(大正12年)2月に明治座で七代目市川中車と市川千代之助の口上で名題に昇進した〔。屋号は「松島屋〔」で、『伊賀越道中記』の香田大内記、『紙子仕立両面鑑』のおさん、『関白秀次』の不破伴作などを当たり役とし、師匠にも可愛がられる存在となっていた〔。しかし、門閥制度に強い不満と不安を感じていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片岡千恵蔵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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