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椎野 英之(''しいの ひでゆき''、1924年9月9日 - 1976年12月2日〔ANPAの夜明け 、吉村敏、日本映画テレビプロデューサー協会、2009年10月13日閲覧。〕)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。日本映画テレビプロデューサー協会事務局長〔、東宝映画常務取締役〔を歴任した。東京都出身。4 == 人物・来歴 == 19443年に文学座に入団。終戦の年に明治大学を卒業し時事新報の記者として入社。文化・社会・政治を中心に活躍。1950年に菓子店を経営し1951年に「雲の会」発行の雑誌『演劇』の編集者となる。1952年に東宝撮影所に入社。文芸部を経て、1960年に東京映画に移籍し、佐藤一郎製作のもと、川島雄三監督の映画『赤坂の姉妹 夜の肌』で「企画」としてクレジットされる〔#外部リンク欄の「椎野英之」の項リンク先、日本映画データベース、2009年10月13日閲覧。〕。翌1961年(昭和36年)には、永島一朗と連名で、女優・田中絹代の監督作品『女ばかりの夜』で「製作」にクレジットされる〔。 1971年(昭和46年)、稲垣俊監督作品『刑事物語 兄弟の掟』以降、俳優座映画放送との提携作品を手がけ始める〔。同年の日本コロムビア(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)と東京映画との提携作品『ひばりのすべて』、『女の花道』を最後に、同年に設立された東宝映画に活動母体を移す〔。のちに同社の常務取締役に就任する〔。 1972年(昭和47年)、『忍ぶ川』の監督に熊井啓を起用、以降、5本の熊井作品を世に出す〔。 1976年(昭和51年)、日本映画テレビプロデューサー協会事務局長として同協会の社団法人化に尽力する〔。同年、俳優座映画放送製作の熊井監督の映画『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』の企画を開始したが、労働組合との団体交渉中に倒れ〔、同年12月2日、同作の完成を見ずに死去した〔。満51-50歳没。 椎野が取り組んだ日本映画テレビプロデューサー協会の社団法人化は、同年同月23日、認可が下り、同年10月23日にさかのぼって設立された〔。翌1977年(昭和52年)、エランドール賞でエランドール協会賞を受賞した〔。『日本の熱い日々 謀殺・下山事件』は、椎野の遺志を継ぎ、1981年(昭和56年)に完成、同年11月7日に松竹配給により公開された〔。同年に向田邦子が講談社から上梓した短篇集『夜中の薔薇』に椎野をモデルにした人物が登場する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「椎野英之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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