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椿井城(つばいじょう)は、奈良県生駒郡平群町椿井にあった日本の城(山城)。椿井山城とも呼ばれる。 == 概要 == 椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏の居城であったとされる。室町時代から戦国時代までの間に築かれたとみられ、現状では山林内に全長310mの長大な遺構をよく残す。最近は地元有志によって遊歩道や標識設置などの整備が行われ、城跡の見学が容易になっている。2010年に地元住民の整備活動に便乗する形で、町による城跡を公園とする計画が立案され遺構破壊を含む内容の物であるとして物議をかもしたが、現在に至り遺構保護を最前提とした計画に変わって進行中である。 現存する椿井城は平群町と斑鳩町の境界に近い矢田丘陵南部山上に存在する。南北310m、東西110mの規模を有し最高所は北部の主郭部分241.5mである。縄張りの遺構は北群と南群に分かれる。尾根上の五ヶ所を堀切で遮断し、郭や横堀や土塁や土橋などを設ける。 中心となる郭は北群の主郭で、東側に土塁を置いて下に横堀を回して防御する。郭の組み合わせも複雑で、切岸による防御線を重ねつつ城内ルートの流れにも工夫がみられ、全体的に戦国時代末期の手法を示す。南の郭群は尾根上に郭を直線的に配し、東側に石積み遺構の一部が残る。土塁も部分的に散在して古い様相をとどめるため、南群が古く北群が新しいという特徴を指摘する声もあるが、最近の説では南北両群とも同時期のものとする説が出されている。従来は土豪椿井氏や嶋左近の居城としてそれらの築城が言われていたが、史料では確認がとれず、城郭研究者の側からは松永弾正久秀が関わっているとの新たな考え方も出されている。椿井城を信貴山城の出城とする考え方もある。 椿井城の縄張図は、これまでに日本城郭大系の掲載図、平群町教育委員会の報告書の掲載図などが知られていたが、最近の整備活動によったものか、こちらに掲載される縄張図のほか、検索すればネット上でも新たな縄張図が公開されていて自由に見ることが出来る。なお縄張り調査はまだ進行中ということであり、今後さらに新たな縄張図が発表されてくるであろう。 尚、平群町には椿井城以外の城郭遺構として、信貴山城、上庄北城、三里城、西宮城、下垣内城、高安山城、平等寺館等がある。 == 沿革 == 〔この沿革は多くの伝承を基にした推測が多く見られる。各伝承類について充分な検証はまだ行われておらず、あくまでも参考としたい。〕 *椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏の居城であったとされる。最終的には嶋左近の居城となったと言われているが、史料からは嶋左近の居城であった事実を確認できない。 *筒井氏家臣団の各伝承で「椿井ノ古塁」や「平群ノ塁」の名前が出てくるようだが、現在の椿井城にあたるかどうかは史料では確認できない。したがってこれらは伝承に過ぎないか、または他の城を指している可能性も考えられる。また、城主を「椿井右近大夫」と伝えるのも伝承に過ぎず、現存する椿井氏系図にみえる「椿井右京大夫政信」とは無関係かもしれない。なお「嶋城」の名前は長禄4年に畠山義就の攻撃を受けた城のことを指すと思われ、時代も全く違うために椿井城とは無関係とするのが適当であろう。従来の研究においては「嶋城」を現在の下垣内城にあてる説が知られるが、当時の椿井城が何城と呼ばれたか、または城として登場していたのかは全く分からないので、伝承をいくら挙げてみても史実は不明のままである。 *椿井氏は江戸時代に尾張徳川家に仕えて幕府に系図を提出しているが、戦国期の当主「政信」の三子である「幸通」の系統が「南八郎」を名乗り、これが「多聞院日記」永禄10年6月21日条にみられる「南夫婦」に関連する可能性がある。系図では椿井氏歴代の居住地に関して「下河原之館」の名も登場するが、「幸通」の系統に関する記載ではなく「幸通」の長兄であった「澄政」の第三子である「政矩」の第六子「良利」(椿井市朗馬助)が天文六年に「下河原之館」に居住し「下河原大明神」を鎮座した宮殿者として系図に登場するのみである〔椿井氏系図では「良利」の系統について、その子「信政」(椿井左馬進)までの記載があり「下河原之館に在住し又は下河原氏と云う・・」とある。〕。よって、「下河原之館」と「南八郎左衛門尉」である「幸通」を積極的に結びつける根拠は確認できない。現在「下河原大明神」は椿井春日神社に祀られているが、旧社地は現在の平群南小学校付近にあり「下河原之館」もその近辺にあったと想定できる。以上の事から、系図にある椿井氏の面々「幸通」「良利」等の系統が椿井城に関連したかどうかは現在のところ謎のままである。 *現存する椿井氏系図には「椿井右京大夫政信」のほかに「澄政」「政矩」「政勝」「信政」などの歴代の名が見えるが、全て「政」の字を持ち、それとは別に「幸政」「幸通」「幸景」など「幸」の字を持つ系統があり、このうちの「幸盛」が「南八郎左衛門尉」とある。 *平群方面では筒井氏と松永氏の小競り合いがずっと続いたようだが、松永氏は滅亡する天正5年10月まで椿井城をおさえていたとみられる。伝承では筒井氏が椿井衆と共に「嶋城」を数度にわたって攻めて失敗したというが、この「嶋城」は前述の下垣内城かもしれない。椿井城がいつ筒井氏に渡ったかは不明だが、松永氏の滅亡後であることは間違いなく、嶋左近が入ったのも天正5年10月以降とみられている。その後、天正8年の織田信長の破城令によって廃城となったため、嶋左近の居城であったとしても三年足らずであった。 *伝承では、椿井城の最終段階においては筒井家重臣の八條長祐(はちじょうながひろ)が城番となっていたとされるが、時期が不明である。 *平群谷地域に現存する城郭遺構としては、椿井城の他に西宮城、下垣内城、上庄北城、三里城などが知られるが、上記の伝承類にみられる城名のどれに相当するか分かっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「椿井城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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