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佐藤 一郎(さとう いちろう、1913年12月25日 - 1987年10月1日〔佐藤一郎 、講談社『日本人名大辞典』、コトバンク、2009年10月13日閲覧。〕)は、日本の映画プロデューサー、脚本家である。第二次世界大戦後の新東宝、東宝、東京映画で活動した〔。『われ一粒の麦なれど』、「駅前シリーズ」を手がけ、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の第4代理事長を歴任した〔。脚本家としてのペンネームは椿 澄夫(つばき すみお)、佐藤 信一郎(-しんいちろう)とも名乗った〔。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)12月25日、東京市(現在の東京都)に生まれる〔。 早稲田大学を卒業後〔、東宝の前身の東宝映画に入社、戦後、新東宝の設立に参加した〔。1949年(昭和24年)、渡辺邦男監督の「渡辺プロダクション」〔いわゆる「ナベプロ」の渡辺プロダクションではない。〕と新東宝との共同製作で、同監督の『異国の丘』を同監督とともにプロデュースし、「製作」として名を連ねる。同作は、同年4月25日に東宝の配給によって公開された。新東宝では1951年(昭和26年)まで6本を手がけた。 1954年(昭和29年)、自らがプロデュースした青柳信雄監督の映画『うれし恥かし看板娘』の脚本を椿 澄夫の筆名で書き、脚本家としてデビューした。脚本執筆作は11作ある。 1958年(昭和33年)、豊田四郎監督の映画『喜劇 駅前旅館』をプロデュースし、同作を皮切りに「駅前シリーズ」を立ち上げ〔、全24作品、1969年(昭和44年)までつづくシリーズとなった。 1964年(昭和39年)5月、前任者の大映のプロデューサー松山英夫から引継ぎ、「日本映画製作者協会」の第4代理事長に就任した〔役員一覧 、社団法人日本映画テレビプロデューサー協会、2009年10月13日閲覧。〕。同協会は、1954年(昭和29年)10月にマキノ光雄が初代会長に就任して設立され、現在は社団法人日本映画テレビプロデューサー協会となっている。同年、松山善三監督の『われ一粒の麦なれど』を手がけ、同年度のブルーリボン賞企画賞を獲得した〔。 定年退職後の1973年(昭和48年)、芸苑社を立ち上げ、『恍惚の人』(1973年)、『華麗なる一族』(1974年)、『不毛地帯』(1976年)と社会派の大作映画を手がけた。 1987年(昭和62年)10月1日、死去した〔。満73歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐藤一郎 (映画プロデューサー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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