|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 楊 : [よう, やなぎ] 【名詞】 1. willow 2. slim ・ 侃 : [かん] 【名詞】 1. strong 2. just 3. right 4. love of peace
楊侃(よう がん、488年 - 531年)は、北魏の官僚・軍人。字は榮業。本貫は恒農郡華陰県。 == 経歴 == 楊播の子として生まれた。成長すると、琴の演奏と読書を好み、人と交遊せず、出仕を勧められても応じようとしなかった。31歳のとき、華陰伯の爵位を嗣いだ。汝南王元悦の下で太尉騎兵参軍をつとめたのを初任とし、揚州刺史の長孫稚に求められて揚州撫軍府録事参軍に転じた。524年(正光5年)、南朝梁の豫州刺史の裴邃が合肥城にあり、寿春の城民の李瓜花・袁建らの内応をひそかに得て、寿春を攻撃する準備を整えていた。北魏側の疑念を避けるため、白捺の旧城に移転すると公表していた。楊侃は白捺が小城で形勝の地でないことから、別の意図があることを見抜き、長孫稚に進言した。はたして裴邃が寿春を攻撃してきたが、長孫稚は撃退することができた。長孫稚の上奏により楊侃は統軍となった。 叔父の楊椿が雍州刺史となると、楊侃は求められて雍州衛軍府録事参軍となり、長安県令を兼ね、衛軍府と雍州の事務の多くを決裁した。527年(孝昌3年)、蕭宝夤らが涇州で大敗すると、北地郡の功曹の毛洪賓が郡を占拠し、反乱兵を率いて渭北に進攻した。楊侃は自ら討って出ることを志願して、戦士を徴募し、3000人あまりを得ると、馬に枚を食ませて夜通し進み、馮翊郡の西に出た。反乱兵は官軍の大軍が討伐に現れたものと動揺し、毛洪賓は人質を送るむねの信書を送り、降伏を願い出た。このため宿勤明達の兄の子の南平王烏過仁の身柄が送られてきた。 後に蕭宝夤が雍州で反乱を起こすと、尚書僕射の長孫稚が討伐に向かうこととなり、楊侃は鎮遠将軍・諫議大夫に任じられ、長孫稚の下で行台左丞をつとめた。まもなく通直散騎常侍に転じた。長孫稚が弘農に進軍すると、楊侃は北の蒲坂を奪取するよう長孫稚に進言して聞き入れられた。 528年(建義元年)、冠軍将軍・東雍州刺史に任じられた。この年のうちに刺史から退任し、中散大夫・都督となって、潼関に駐屯した。洛陽に召還されて、右将軍・岐州刺史に任じられた。529年(永安2年)、元顥が迫ってくると、楊侃は本官のまま仮の撫軍将軍として都督となり、大梁に駐屯することとされたが、赴任しないうちに、北中郎将を代行した。孝荘帝が洛陽を放棄して河北に避難すると、楊侃は随従を志願して、建州に入った。帝に随行した城陽王元徽以下の約10人は、そろって3階を加増されたが、楊侃は河梁の誠を嘉されて、特に4階を加えられることとなった。楊侃は固辞して、諸士と同じ3階の加増にとどめるよう願い出て、許された。このため鎮軍将軍・度支尚書・兼給事黄門侍郎に任じられ、敷西県開国公に封じられた。 楊侃は洛陽の奪還を企図して、黄河に多くの筏を放ち、守る元顥側にどこから渡るかを予測できないようにさせようと、爾朱栄に提案した。楊侃は爾朱兆らとともに黄河を南に渡り、元顥の子の元冠受を撃破して、捕らえた。このため元顥は洛陽を棄てて南に逃れた。孝荘帝が洛陽に帰還すると、楊侃は尚書の任を解かれて、正式に給事黄門侍郎となり、征東将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。元顥を破った功績により、済北郡開国公に爵位を進めた。ときに私鋳銭が横行する世情を鑑みて、五銖銭の改鋳を孝荘帝に進言し、容れられた。 万俟醜奴が東秦州を落とし、岐州を包囲した。530年(永安3年)、大都督の爾朱天光が軍を率いてこの反乱を討つこととなり、楊侃は本官のまま使持節・兼尚書僕射・関右慰労大使となって従軍した。凱旋すると、侍中に任じられ、衛将軍・右光禄大夫の位を加えられた。 孝荘帝が爾朱栄の粛清を図ると、楊侃は李晞・城陽王元徽・李彧らとともにその計画に参加した。爾朱兆が洛陽に入ると、楊侃はちょうど休暇中であり、隠れ潜んで故郷の華陰に逃げ帰った。531年(普泰元年)、長安にいた爾朱天光が、楊侃の子の舅にあたる韋義遠を派遣して、爾朱栄を殺害した罪を赦すので麾下に招きたいと伝えてきた。楊侃の従兄の楊昱は一家に禍が降りかかるのを恐れて、応じないように勧めたが、楊侃は仮に爾朱天光の言が偽りだったとしても、一身を滅ぼすのみで、一族に禍が及ばないように願おうといって、長安に赴いた。7月、爾朱天光に殺害された。享年は44。532年(太昌元年)、車騎将軍・儀同三司・幽州刺史の位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊侃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|