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楊 僕(よう ぼく、生没年不詳)は、前漢の人。宜陽の人。漢の武帝に仕え酷吏と呼ばれた官僚、将軍。 == 略歴 == 千夫(漢の武帝の時代に制定された武功爵の一つ)から吏となり、河南太守に推挙されて御史となった。関東の賊を捕らえることを監督し、勢力家や貴人であっても回避せず強い態度で臨んだ。 その後昇進し、元狩4年(紀元前119年)に中尉丞から主爵都尉となり、武帝に有能さを認められた。元鼎5年(紀元前112年)、南越が反乱を起こすと、楊僕は楼船将軍となり、罪人を率いて豫章から南下して南越へ攻め込んだ。楊僕は南越と最初に交戦して勝利し、兵糧を奪うなどの功を挙げ、伏波将軍路博徳らと共に南越を征服した。 元鼎6年(紀元前111年)、南越を討った功績で列侯(将梁侯)に封じられた。また、楊僕は東越が南越征伐に参加したいと申し出ながら実際には兵を出さなかったことを糾弾し、東越王余善を誅するよう願い出た。武帝は兵士の疲弊を理由に許さなかったが、豫章に駐留して命を待たせた。それを聞いた東越は反乱を起こしたので、楼船将軍楊僕は横海将軍韓説、中尉王温舒らと共に東越を攻め、楊僕は豫章から出撃した。この時、楊僕は南越での武功を誇っていたため、武帝は南越での罪や過失を責める勅書を楊僕に与え、楊僕は恐れおののいて東越を攻めた。 翌元封元年(紀元前110年)に東越と交戦が始まり、楊僕は校尉を破られ、長史を殺されたが東越の徇北将軍を斬った。東越は王余善を殺して降伏した。 その後、元封2年(紀元前109年)に漢に従わない衛氏朝鮮を討つこととなり、楼船将軍楊僕は兵五万を率い、斉から勃海を通り攻め込んだ。楊僕は朝鮮王右渠に破れ、一度は兵を失い山中に隠れるほどであった。左将軍荀彘と共に首都の王険城(平壌)を囲んだが、降伏を持ちかける衛氏朝鮮は荀彘よりも楊僕の方に心を寄せたため、楊僕と荀彘の関係が悪化した。楊僕はついに荀彘によって捕らえられ、指揮権を荀彘に奪われた。 衛氏朝鮮は征服されたが、荀彘は功を争ったことを理由に処刑され、楊僕も命令違反や兵の損失が多かったことを理由に誅殺されるところを罪を購い、罷免され庶人となった。その後、病死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊僕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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