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楊 愛源(よう あいげん)は、中華民国の軍人。北京政府、国民政府(国民革命軍)、山西派に属した。字は星如。別号は革非。 == 事績 == === 晋軍での台頭 === 農民の家庭に生まれる。1910年(宣統2年)、保定陸軍軍官学校に入学した。1914年(民国3年)冬に第1期歩兵科を卒業している。 卒業後は直ちに山西に戻り、閻錫山率いる晋軍(山西軍)に加入した。1917年(民国6年)8月、第1混成旅第1団団長に、1924年(民国13年)には、第6旅旅長に昇進している。その後も、馮玉祥率いる国民軍との戦いを経て、1926年(民国15年)、晋綏軍第6師師長に任命される。翌年春には第2軍軍長となった。 同年6月、閻錫山が北方国民革命軍総司令に任じられた際にも、楊愛源は引き続き第2軍軍長をつとめた。そして張作霖率いる奉天派の軍と戦って軍功をあげている。1928年(民国17年)、国民政府軍事委員会委員、第3集団軍第3軍団総指揮に任じられ、石家庄、北京、天津の攻略に貢献している。同年11月、この功績もあって、察哈爾省政府主席に任命された。 1930年(民国19年)4月、閻錫山らが蒋介石打倒を目指して中原大戦を起こすと、楊愛源は副指揮として4個軍を統率した。しかし、反蒋軍は敗北に終わる。これにより一時日本への亡命を強いられた閻は、楊と徐永昌に晋綏軍の後事を託し、楊と徐はこれを縮小・再編する事務にあたった。 翌年1月、楊愛源は第34軍軍長に転じている。8月、閻錫山が山西省に復帰すると、楊は晋綏軍事整理委員会主任委員に任じられ、晋綏軍の再建・強化に取り組んでいる。9月、楊は山西清郷督弁も兼任した。1935年(民国24年)からは、省内の全ての公務員、中学校教師・学生に軍事訓練を実施している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊愛源」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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