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楊智積 : ミニ英和和英辞書
楊智積[よう ちせき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よう, やなぎ]
 【名詞】 1. willow 2. slim
: [せき]
 【名詞】 1. (gen) (math) product 

楊智積 : ウィキペディア日本語版
楊智積[よう ちせき]
楊智積(よう ちせき、? - 616年)は、中国皇族。蔡王。文帝楊堅の甥にあたる。
==経歴==
楊整と尉遅氏の間の子として生まれた。581年、隋が建てられると蔡王に封ぜられ、間もなく開府儀同三司・同州刺史に任ぜられた。遊興を楽しまず、政務の暇に端座して読書した。侍読の公孫尚儀は山東の儒士であり、府佐の楊君英や蕭徳言は文学に通じていて、智積はこうした人々とわずかに交際するのみであった。
かつて父の楊整は楊堅と合わず、母の尉遅氏もまた独孤皇后と折り合いが悪かった。智積はいつも危惧の念を抱き、過剰に自制した行動を取っていた。ある人が殖産を行うことを勧めたが、食べるに困っていないからと断った。5人の子にも『論語』と『孝経』を教えるだけで、才能を目立たせることを避けた。600年長安に召還されると、職任を与えられず、自邸にこもって、朝覲のとき以外は外出しなかった。
煬帝が即位すると、智積の従兄弟にあたる滕王楊綸や衛王楊集が讒言を受けて罪に落ち、弟の高陽公楊智明が爵位を奪われたため、智積は不安を抱いた。611年、弘農太守に任ぜられたが、政務は属僚に任せて、自らは清廉であることに努めた。
613年楊玄感が乱を起こし、東都洛陽から軍を率いて西に向かおうとした。智積は楊玄感が関中に入るのを足止めすることを決めた。楊玄感の軍が弘農城下にやってくると、智積は城壁に登って楊玄感を罵り辱めた。楊玄感は激怒して弘農城を攻めた。城門は楊玄感の軍によって焼かれたが、智積はそこにさらに火を注いだので、楊玄感は入城することができなかった。数日後、宇文述らの援軍がやってくると、智積は合流して楊玄感を撃破した。間もなく宗正卿に任ぜられた。
616年、煬帝に従って江都に下り、病の床に就いた。煬帝は肉親の情に薄かったので、智積は不安に駆られて、病となっても医者を呼べなかった。臨終の床において「わたしは今日はじめて首を保ったまま死ぬことができると知った」と親しい人に語った。
子に楊道玄があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「楊智積」の詳細全文を読む




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