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楊 樹荘(よう じゅそう)は、中華民国の海軍軍人。北京政府、国民政府に属する。国民政府では初代の海軍部部長となった。字は幼京。 == 事跡 == === 清末民初の活動 === 叔父の楊建洛も海軍軍人だったが、日清戦争で陣没している。楊樹荘はその志を継ぎ、1898年(光緒24年)に黄埔水師学堂第8期駕駛班に入学した。1903年(光緒29年)、卒業して巡洋艦「海圻」に配属される。1911年(宣統3年)、魚雷艇「湖鷹」の管帯に就任した。 武昌起義が勃発すると、楊樹荘は薩鎮氷の下に配属されて漢口に急行し、馮国璋率いる陸軍と協力して漢陽の奪回に成功した。ところが、漢陽では陸軍が略奪・放火・殺戮の暴虐を繰り広げ、海軍の大多数はこの行状に激怒した。その結果、薩は海軍から離脱し、海軍の多くは革命派へと起義した。楊もまた革命派に転じ、清朝の反撃を防止している。 中華民国成立後の1912年(民国元年)4月、海軍部成立とともに楊樹荘もこれに所属し、翌年1月、海軍中校銜を補授された。1914年(民国3年)5月、海軍上校に昇進し、10月には「永翔」の艦長となる。翌年、「楚観」、「飛鷹」の艦長を歴任した。1916年(民国5年)、「肇和」艦長となり、海軍訓練を主管する任務につく。1920年(民国9年)12月、「応瑞」艦長となり、翌年11月、海軍少将に昇進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊樹荘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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