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楊 洪(よう こう、? - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は季休(ききゅう)。犍為郡武陽県の人。 == 経歴 == 最初は劉璋に仕え、諸郡の官吏を歴任した。劉備の益州平定後、犍為太守となった李厳により功曹に任命される。李厳が郡役所を移転したいとの意向を示すと、これに反対している。後に李厳の推薦により、蜀郡従事に任命された。劉備の命令で人員の徴発を命じられた時は、諸葛亮に相談を持ちかけられ、その事務処理能力を高く評価された。また、蜀郡太守代行となり、まもなく正式な蜀郡太守となった。後に益州治中従事に転任した。 夷陵の戦いでの敗戦後、劉備は白帝城において重病となり、諸葛亮も見舞いのため成都を留守にしていた。この報を聞いた黄元が謀反を起こすと、留守を守る太子劉禅に黄元討伐を進言し、適切な助言を行い、黄元を滅亡させた。 劉禅即位後、223年に関内侯に封じられ、蜀郡太守・忠節将軍となった。のちに、蜀郡太守のままで越騎校尉になった。 227年、諸葛亮から留府長史に張裔を任用したいとの相談を受けたが、これに異を唱え向朗を推薦した。しかしこれより以前、張裔の子の行為を処罰していたこともあったため、張裔に逆恨みされることになった。後に張裔が物議を醸すと、諸葛亮は楊洪が正しかったことを悟ったという。 228年、在任中に亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊洪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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