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楊 紹(よう しょう、生年不詳 - 562年)は、中国の西魏・北周の軍人。字は子安。本貫は弘農郡華陰県。 == 経歴 == 北魏の中散大夫の楊国の子として生まれた。永安年間、広武将軍・屯騎校尉・直盪別将に任ぜられた。531年、平郷男に封ぜられ、征西将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。 532年、衛将軍・右光禄大夫に転じ、爵位は冠軍県伯に進んだ。535年、爵位は公に進んだ。車騎将軍・通直散騎常侍・驍衛将軍・左光禄大夫に累進した。538年、鄜城郡守として出向した。侯莫陳崇の下で稽胡を討ち、黙泉の上で撃破した。帥都督・驃騎・常侍・朔州大中正を加えられた。547年、燕州刺史に任ぜられた。大都督・車騎大将軍・儀同三司に累進した。 大将軍の達奚武の下で漢中を攻撃した。ときに梁の宜豊侯蕭循が梁州を守っていた。楊紹は城を包囲して持久戦となった。楊紹は城下まで来てしきりに挑発したが、蕭循は出戦しようとしなかった。楊紹が人を派遣して罵り辱めると、蕭循は怒って出兵してきたので、楊紹は偽って後退し、伏兵で攻撃すると、城は降った。功績により輔国将軍・中散大夫に任ぜられた。 また燕国公于謹の下で江陵を包囲した。楊紹は枇杷門で戦って、流れ矢を股に受けたが、奮戦して衰えなかった。江陵が平定されると、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、衡州刺史に任ぜられ、叱利氏の姓を受けた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、位は大将軍に進んだ。562年、死去した。成文等八州刺史の位を追贈された。諡を信といった。 子の楊雄が後を嗣ぎ、上柱国・邽国公に上った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊紹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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