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楊 虎(よう こ、1889年 - 1966年3月)は、中華民国・中華人民共和国の軍人・政治家。字は嘯天。 == 事跡 == === 孫文側近の軍人 === 南京将弁学堂を卒業し、中国同盟会に加入した。辛亥革命の際には、南京攻略戦に参加している。1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)に際しては黄興の参謀を務めたが、敗北して日本に亡命している。このとき、孫文(孫中山)の秘書を務めた。 1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝を自称すると、楊虎は急遽帰国してこれに与し、江蘇軍総司令、海軍陸戦隊司令兼海軍総司令代理として抜擢された。しかし12月4日に、楊は軍艦「肇和」を率いて反袁蜂起を決行した。そのため、当初の袁への服属は偽装であったと見られる。同月末に護国戦争が本格的に勃発した後、翌1916年(民国5年)には護国軍の長江下遊司令に任ぜられ、陳其美とともに江陰砲台などを攻撃したが、これは失敗に終わった。 1917年(民国6年)、孫文が護法運動を開始したため、楊虎も広州でこれに加わり、護法軍政府軍事委員に任ぜられた。翌年3月、護法軍政府参軍処参軍に任ぜられ、後に鄂軍総司令に転じた。1922年(民国11年)、広州非常大総統府参軍となり、同年に陳炯明が孫への兵変を起こした際には、楊が孫を警護している。翌1923年(民国12年)4月以降、大本営海軍特派員、大本営参事、大本営海軍処処長を歴任し、海軍の事務を処理した。1924年(民国13年)には北伐討賊軍第2軍第1師師長に任ぜられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊虎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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