|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 楊 : [よう, やなぎ] 【名詞】 1. willow 2. slim ・ 妃 : [ひ] 【名詞】 1. princess 2. consort
楊 貴妃(よう きひ、719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる〔以下、生涯についての記述は、『旧唐書』、『新唐書』、『資治通鑑』によるものとし、それ以外は出典を明らかにする。〕。 == 生涯 == === 出生 === 蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。6月1日に生まれたと伝えられる。四川省には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。 『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隱士が彼女の人相を見て、「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに、またいとこの楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという説話が残っている。 『開元天宝遺事』によると、楊玄淡は若い頃に持っていた刀は、猛獣や盗賊が近づくと、警告するように、刀が音を発したと伝えられる。また、楊貴妃が父母と別れる時、寒い日であったので、涙が紅く凍ったという説話を伝えている。 生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄淡に売られたという後世の俗説もある。〔村山『楊貴妃』30P、35-36P〕〔彼女がレイシ(ライチ、茘枝)への嗜好、歌舞楽曲へのすぐれた才能、出世に対する民間の反応などから、身分の低い妓女出身ではないかという推測もされている。〕 === 寿王妃から女冠へ === 735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。〔楊貴妃が寿王妃で無かったという説もあるが、「旧唐書」では、楊貴妃が寿王妃と明示されていないが、「新唐書」「資治通鑑」では寿王妃としている。また、「唐大詔令集」の「冊寿王楊妃文」でも開元23年に叔父・楊玄璬の長女として冊立されているため、寿王妃であった可能性は高いと思われる。〕李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。 740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。〔また、唐代の小説である『周秦行記』によれば、腰は細い(繊腰)とされているので、史実の体型は断言しにくい〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊貴妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|