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楠山正雄 : ミニ英和和英辞書
楠山正雄[くすやま まさお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くすのき]
 【名詞】 1. camphor tree 2. cinnamonum camphora 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

楠山正雄 : ウィキペディア日本語版
楠山正雄[くすやま まさお]
楠山 正雄(くすやま まさお、1884年11月4日 - 1950年11月26日)は、日本演劇評論家編集者児童文学者。主に大正時代から昭和時代戦後初期にかけて活動した。
== 生涯 ==
東京府京橋区銀座にて、印刷会社の子供として出生するが、間もなく生みの父親が死亡した。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社は潰れて
苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、前途多難な少年時代を送る。この幼少期間に、母方の祖母に歌舞伎の舞台を連れて行ってもらったことを機に演劇に関心を持ち始める。12歳の時に叔父に引き取られ、彼を医学の道へ進ませるべく叔父に強く勧められて獨逸学協会学校へ入学し、ドイツの学問や外国語力を身に付ける。しかし、予てより文学を志していた正雄は医学に全く関心はなく、やがて進路上の相違から叔父との間に亀裂が生じ、当時既に再婚相手と縁を切っていた母親と再び一緒に暮らした〔 『楠山正雄の戦中・戦後日記 辞典編集・演劇・童話の仕事を誠実に追う』、242-246頁、冨山房、2010年〕。
母親との暮らしを再開した後、國學院を経て、東京専門学校(現早稲田大学)英文科卒。卒業後は早稲田文学社、読売新聞社を経て、早大時代の恩師であった坪内逍遥とのツテで冨山房に入社し、評論家としてのみならず、公正係や百科事典の編集など幅広い仕事を受け持ち、1938年まで正社員として在籍した。
当時は主に新聞や雑誌などで日本の演劇に関する評論を執筆、同じく恩師の島村抱月が設立した芸術座のメンバーとして幾つか台本を手掛けたほか、母校の早稲田大学でも近代演劇に関する授業を受け持つなどしていた。しかし、抱月の死去と看板女優の松井須磨子の自殺で劇団が崩壊してからは、1937年に劇評を再開するまで演劇界からは長らく距離を置くようになる。
1915年に、冨山房で児童書の翻訳の公正係を担当したことを機に、児童文学の編集・翻訳再話をするようになり、『模範家庭文庫』『画とお話の本』などの全集シリーズやアンソロジーを編纂し、自らも創作に携わった。その過程で、鈴木三重吉が立ち上げた『赤い鳥』にも参与し、日本のみならず様々な国の童話の邦訳・再話作品を掲載した。第二次世界大戦が近づくと、主に日本国内のおとぎ話神話伝説の再話に専念していった。戦後は、再び海外の児童文学の翻訳業に着手し始めたが、により66歳で息を引き取った。
曽祖父楠山孝一郎は、成島柳北の兄。したがって、森繁久弥とも縁戚にあたる。
翻訳をしたエドモン・ロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」は額田六福の脚色によって「白野弁十郎」となり島田正吾緒形拳によって一人芝居として演じられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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