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楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男。「大楠公」と尊称された正成に対して「小楠公(しょうなんこう)」と呼ばれる。初名は正之(まさより、まさこれ)と伝わる。父の意志を継ぎ、足利尊氏と戦った。 == 生涯 == === 生い立ち === 生年については明確な史料が存在しない。『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから嘉暦元年(1326年)とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせ、父の戦死の時点で20歳前後だったという説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない〔正行の生年は元亨3年(1323年)や正中元年(1324年)、または嘉暦元年(1326年)の諸説があるが確証はない。延元元年/建武3年(1336年)に父・正成と桜井で別れた時、すでに正行は左衛門少尉の官職を賜っており元服を迎えた後だったと、明治初年に学者の重野安繹はこれを唱えている。さらに作家の井沢元彦が著書『逆説の日本史』第7巻「中世王権編 太平記と南北朝の謎」において、忠臣を称える宋学の立場から正行の年齢を11歳に設定にしたという説を展開している。結論として正行の当時の年齢は既に青年というべき20歳前後だった見解があり、桜井の別れそのものが疑問視なされている(桜井の別れを参照)。〕。 正成の長男として河内国に生まれた。幼名は多聞丸。幼少の時、河内往生院などで学び武芸を身に付けた。延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ父の首級が届き衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという〔『太平記』のみの記述。『梅松論』には一切記されていない。〕。 正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝方として戦った。正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠木正行」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kusunoki Masatsura 」があります。 スポンサード リンク
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