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楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代の武将。南朝の有力武将楠木正成の三男。楠木正行、正時の弟。 == 生涯 == === 京都の争奪 === 正平3年/貞和4年(1348年)、四條畷の戦いにおいて兄正行・正時が高師直の軍に敗れて討死すると、楠木氏の家督を継ぎ、南朝方の先鋒武将となる。同年、北朝方の高師泰の軍と河内国石川で戦い、翌正平4年/貞和5年(1349年)にも河内国南部の各地で北朝方と小規模な戦闘を繰り広げている。 正平5年/観応元年(1350年)に勃発した室町幕府の内紛(観応の擾乱)に際しては、これを機として南朝の勢力挽回に努めるとともに、南北両朝合一に向けての活動を行う。正平一統後の正平7年/文和元年(1352年)に北畠顕能、千種顕経らとともに足利義詮を駆逐して17年ぶりに京都を奪還するが〔『大日本史料』第6編16冊209頁〕、勢力を回復した義詮に男山八幡で敗れ、わずか1月あまりで京都を追われた。 しかし、その後も畿内各地に兵を広げ、摂津国・河内国において勢力を拡大する。正平9年/文和3年(1354年)、足利直冬が南朝方として九州から上洛した際には、ともに戦い、京都を再び奪還するが、義詮の反撃の前に敗れ撤退した。 正平16年/康安元年(1361年)、室町幕府の政争(康安の政変)で失脚し南朝に降った元幕府執事の細川清氏らとともに、三度目の京都奪還に成功するが、翌月には撤退している。 その一方、正儀は南北朝合体を佐々木道誉らに働きかけ、正平22年/貞治6年(1367年)、管領細川頼之を仲介して北朝と和睦を結ぼうとするが、将軍義詮の拒否により成立しなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楠木正儀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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